寺社探訪

寺社探訪とコラム

「荒川 百所巡礼 4」

目次

足立区民まつり・元宿エリア散策

常磐線と千住新橋の間の河川敷エリアで、大きなフェスが行われていました。足立区が主催してい「A festa」という家族連れで参加できる区民まつりでした。(訪問時は10月初旬)

とにかくものすごい人で、人混みが苦手な私は河川敷に降りる勇気もなく、土手の上から眺めるだけでした。5年ぶりの開催とのことですが、2017年の来場者数が37万人という凄いイベントです。今年はそこまで戻ってないように見えましたが、数万人は確実の賑わいでした。

 

荒川 百所巡礼 第18番:大川町氷川神社

こちらは「江戸六地蔵奥州街道」企画で千住宿を訪れた時に訪問しました。稲荷神社が多いのはもちろんなのですが、荒川の特徴的に氷川神社も多いだろうと思われます。大宮氷川神社を中心に秩父エリアに広がった氷川信仰の影響が、荒川流域にも広がっているだろうという予想です。この氷川神社鎌倉時代後期の創建とのことです。

この大川町氷川神社には立派な富士塚があります。正式には千住川田浅間神社と称します。富士山の溶岩を積み上げて作った高さ3mになる富士塚です。かつては元宿川田耕地に、氷川神社浅間神社と稲荷神社が同じ境内にあったそうです。それが荒川放水路の開削や東京都の水道幹線工事のために現地に移設されました。

 

荒川 百所巡礼 第19番:真宗大谷派 源信

氷川神社からほど近い、同じ千住大川町にある真宗大谷派源信寺てす。住宅街の奥まったところにあって、目立たない寺院です。江戸時代に千住宿の御掛所として建立された寺院です。御掛所とは真宗大谷派の呼び名で、別院のような意味です。京都の東本願寺の千住別院といった始まりだったのですね。

入口に掛かっているこの看板は、「鎌(かま)碗(わん)はゐれ(はいれ)」つまり「構わん、入れ」ということですね。洒落てます。

 

荒川 百所巡礼 第20番:元宿神社

西新井橋の近くまでやってきました。帝京科学大学のキャンパスに挟まれるように、元宿神社があります。天正元年(1573年)元宿耕地の東南に八幡神社を、東北に稲荷神社を建立したことが始まりです。八幡神社なので、誉田別命をお祀りしています。

境内に大師堂があります。これは近隣にあった多聞寺という寺院が不動堂になり大師堂に変遷したそうです。扉の裏に太子堂と張り紙もされていましたが、本尊は聖徳太子というよりは弘法大師に見えました。かつてあった信仰が消失せずに残っていることが素晴らしいですね。

住宅街から大通りに出ますと、富嶽三十六景武州千住」碑がありました。ここは現在の隅田川に船が出入りする場所だったそうです。周囲には船頭衆が住んでいて、港のような町だったそうです。都市化に伴って水道整備が進む中、昭和45年(1970年)にこの水路は埋め立てられました。かつてそこにあった暮らしが、北斎の絵に見ることができるというのは、有り難いことだなと感じます。

 

荒川 百所巡礼 第21番:元宿堰稲荷大神

武州千住碑の横に、小さな祠とイチョウの御神木があります。このすぐ近くに元宿堰稲荷神社があるので、その境外祠だと思われます。そもそも元宿堰稲荷神社も、元宿神社の飛地境内という扱いになっているそうです。

迫る隅田川・足立区→北区

西新井橋です。このあたりに海から14kmの標識がありました。橋を渡ると西新井の市街地と西新井大師があります。今では荒川の彼岸になっていて、川の向こうというイメージですが、江戸時代に荒川放水路は存在していませんので、もっと身近なお寺だったのかもしれませんね。

いかがでしょうか? 海の近くとは流石に違っていますが、まだ荒川河川敷の風景としては大きな変化がないですね。草ボーボーのエリアがあったり、野球やサッカーができるエリアがあったりして、広い河川敷が維持されています。土手の上と土手の下に人と自転車が通れる道があるのも変わりません。

すると、荒川の反対側、歩いている土手から見ると左側に隅田川が迫ってきているのが見えます。荒川放水路は昭和5年(1930年)に完成しましたが、それ以前は現在の隅田川が荒川下流でした。荒川放水路は宿場町として栄えていた千住の町を新しい荒川の内側にするために大回りさせて東京湾に向かっています。

扇大橋です。台東区と埼玉県川口市を結ぶ尾久橋通りが通っています。ちなみにこのグラウンドは住所的には足立区にありますが、荒川区が管理している荒川区民用のグラウンドです。荒川区隅田川の内側なので、現在の荒川とは接していないのです。

海から16kmのキロ杭を越えて、江北橋と五色桜大橋が見えてきました。江北橋は東西に走る道が通っています。五色桜大橋は首都高速中央環状線が通っています。

 

荒川 百所巡礼 第22番:氷川神社

江北橋のたもと、足立区宮城にあるので宮城氷川神社です。荒川の対岸にある江北氷川神社が社務・祭礼などを兼務しています。氷川神社ですから主祭神素戔嗚命なのですが、境内には悲劇の物語としてこの地域(足立区・北区)に語られているという「足立姫伝説」の悲劇の主人公・足立姫も祀っているそうです。物語の内容はまた、いつか当ブログでお伝えできると思います。

右に荒川、左に墨田川という感じです。このあたり、一瞬だけ北区に入ります。このカーブを曲がり終える頃には、また足立区に戻ります。

こちらは足立区です。「わくわく水辺広場」という名称が付いていますが、特にわくわくの要素は見当たりません。大きな柳がたくさんあって、わくわくよりも重いしっかりした空気感になっています。

海から18kmです。「荒川之下流三十景 その十九」となっています。残るは1/3です。18km歩いて、まだ下流の2/3なのかと思うと、荒川がいかに大きな川かということがわかります。

そして鹿浜橋。環状七号線、いわゆる環七道路です。鹿浜橋を超えると、河川敷はゴルフ場になります。広かった足立区もそろそろ終わろうとしています。このあたりまで歩いてくると、足立区民祭り「A festa」の賑わいも遠い過去の思い出になってしまっています。

さて、ついに隅田川荒川放水路の分岐点、岩淵水門が見えてきました。これこそ大正~昭和にかけての、東京近代都市化の象徴のひとつと言えます。左奥へ伸びているのは新河岸川です。埼玉県川越市からこの岩淵水門まで、荒川とほぼ平行に流れ、ここで手前の隅田川に合流します。青い岩淵水門の向こうは荒川です。

そして、ついに海から20kmの目印です。道しかない河川敷の土手で、私はこれでも5分以上は待ったのですよ。こちらの男性がずっとこの看板の前で手帳にメモしていたので、やむなく男性ごと写真に収めさせていただきました。待てずに申し訳ないですが、これも私にとっての思い出のひとつになります。私的にはやっと20kmに到達したという感じです。寄り道をしていることもありますが、なかなか進まないものです。荒川を歩いているとすぐに埼玉県に突入すると思っていましたが、案外東京都内も長いです。ここから北区に入っています。

岩渕水門と農民魂

岩淵水門(通称・青水門)を渡ります。この付近で30代くらい男性が、水不足にならないように、ここから荒川の水を隅田川に流し込んでいるんだと仲間に説明していました。歴史を知らないと、そう見えてしまいますよね。昨今は水不足だと言われていますし。実は都心を洪水から守るために、ここで荒川の水をせき止めて、大回りで東京湾に放水しているというのが正解です。事実は想像よりダイナミックなのでした。

中洲がZの形になっています。遠くのオレンジの水門は旧岩淵水門(通称・赤水門)です。通常、赤水門も青水門も開いているので、引き潮時は荒川から隅田川へ、上げ潮時は隅田川から荒川へ水が流れているのだそうです。

旧岩淵水門は地盤沈下が原因で新しい水門に役目が引き継がれ、現在では使用されておらず、水門としての用も果たしていないのですが、歴史構造物として高い評価を受けています。現在は中之島へ渡る歩行者専用の橋になっています。

せっかくなので中之島へ渡ってみました。水門公園と呼ぶそうです。象徴的なオブジェが建っていて、「月を射る」というタイトルが付いています。他に、「草刈りの碑」が建っています。「農民魂は、先ず草刈りから」という名言が刻まれています。深く読めばどこまでも深い文章です。

 

荒川 百所巡礼 第23番:水神社

「荒川知水資料館アモア」の敷地内にある水神社です。まぁ、ありがちですよね。東京都羽村市玉川上水の入口にも、水神社がありました。資料館の周りには他に、多摩川放水路完成記念碑と、船堀閘門頭頂部が展示されていました。

新荒川大橋です。東京都北区と埼玉県川口市を結んでいます。川口市の方が、高いビル群があって都会ですね。

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