寺社探訪

寺社探訪とコラム

浄土宗 祐天寺

浄土宗 祐天寺 目次

名称・寺格

明顕山(みょうけんざん) 善久院 祐天寺 と称する、浄土宗寺院です。

創建

増上寺36世の祐天上人が廟所と念仏道場の建立を求め、亨保3年(1718年)、祐天の没後に弟子の祐海が開基しました。

本尊

祐天上人

ご利益

祐天上人が書写した「南無阿弥陀仏」の名号は様々なご利益を得られるとして、将軍家や皇室や諸大名家から帰依を受けていました。

みどころ

閑静な街並みに現れる広々とした境内には、幼稚園児の声が響き渡っていました。多くの文化財を所有する歴史に名高い寺院です。

アクセス

東京都目黒区中目黒5-24-53

東急東横線「祐天寺」より徒歩8分

探訪レポート

祐天寺は東急の駅名や目黒区の町名にもなっている寺院です。ただ、寺院の所在町名は中目黒なのですけどね。山門を入ると、右側に何やら色々石碑などが建っているエリアがあります。祠にお地蔵様がいらっしゃいますが、「子守地蔵」というそうです。祐天寺は幼稚園を運営していて、境内には子どもたちの遊ぶ声が響いていました。

参道を挟んで左側にも、石碑がたくさん並んだエリアがあります。目黒区の文化財に指定されている海難供養碑もあります。海難供養碑は2基あり、それぞれいつどこでどの船が事故に遭い、何名が亡くなったと記録されていて、当時の海運事情を物語る貴重な資料となっています。

 

こちらは境内にあって立派な門のある地蔵堂となってます。天明8年(1788年)に建立され、寛政12年(1800年)に増築されたもので、国の文化財に登録されています。祐天寺では祐天上人を本尊として祀っていて、この地蔵堂に祀られている地蔵菩薩も祐天上人の本地身とされています。

立派な仁王門です。享保20年(1735年)に、徳川5代綱吉の養女竹姫によって寄進されました。扁額の明顕山の文字は、開基の祐海上人の筆だそうです。東京の寺院は明暦の大火と関東大震災第二次世界大戦で焼けてしまうことが多い中、祐天寺は立地が絶妙だったのか、多くの堂宇が建立当時のまま(改修はされています)残っています。

こちらも歴史ありそうな手水舎です。実際に使用されてないのはどういう理由からかわかりません。弘化3年(1846年)に建立され、国の文化財になっています。屋根の裏側に龍の彫刻が施されています。

この鐘楼堂は、享保14年(1729年)に徳川6代家宣の17回忌のために正室の天英院から寄進されました。祐天上人は82歳まで生き、徳川5代綱吉、その母の桂昌院、6代家宣の帰依を受けました。12歳で増上寺に入り、経文を覚えられずに破門され、成田山新勝寺に参籠して能力を得て、増上寺に戻るという変な経歴です。浄土宗の僧なのに密教僧のような怨霊払いの伝説が多く、悪霊に取り憑かれた者だけでなく、悪霊そのものも念仏の力で成仏させ救うという評判だったそうです。

祐天上人の伝説の中で最も有名になったのが、累(かさね)という女性の怨霊を成仏させた説話で、後に歌舞伎などの様々な芸能の題材となりました。このかさね塚は、祐天上人が当時住職を勤めていた茨城県の法蔵寺にある累一族の墓の土が分祀されているそうです。

こちらは仏足石です。釈迦は死後に自分の像を作って崇拝することを禁じました。今となっては仏像だらけなので、この禁は破られてしまうのですが、その過程で登場したのが仏足石です。苦しみに耐える衆生が、心の拠り所として釈迦の像を求めますが、像が禁じられているならと、宝塔や法印などに置き換えられていました。それが、より人の姿に近づいていき、やがて釈迦の姿になっていくのですが、まずは足の裏からだったのですね。祐天寺の仏足石は、釈迦が出家剃髪したガヤ・ビシュヌバドで産出した石に、釈迦が悟りを開いたブッダガヤの大塔の金剛宝座脇の菩提樹下に祀られている仏足石を写したものだそうです。

こちらにもお地蔵様がいらっしゃいます。祐天上人は地蔵菩薩の化身とされていたので、境内には様々なお地蔵様が建てられています。そもそも祐天寺は、将軍家が帰依する高僧、祐天上人の廟所として開基されました。寺請制度で寺院が乱立したからか、当時は新しい寺院の建立が禁止されていたそうです。そこで、弟子の祐海上人が膳久院という草庵を徳川家のサポートによって祐天寺という寺院に変えて、祐天上人を祀ったというのが始まりです。

こちらは江戸火消の記念碑ではなく、地蔵縁起碑です。祐天寺の中興第六世の祐全上人の名号が中心に置かれていて、板碑には祐天上人が地蔵菩薩の化身であることが書かれているそうです。祐天寺の地蔵菩薩は火消しのご利益があるとされ、江戸町火消しの信仰を集めていたそうです。それが現代にも受け継がれ、木遣で有名な江戸消防記念会が大切に護っているということだそうです。

この建物は見るからに新しいですね。こちらは精進殿と称し、檀家さんのための建物です。子どもが参加できるイベントや、檀家さんの葬儀ができるのだそうです。

その隣に建つのが阿弥陀堂です。浄土宗なので阿弥陀如来は中心的な仏様です。享保9年(1724年)に、仁王門と同じ竹姫によって寄進されました。竹姫は信心深かったようで、祐天寺を支えた功労者ですね。堂内にご安置されている阿弥陀如来坐像も竹姫からの寄進で、胎内には竹姫が書写した名号1万遍が、須弥壇には竹姫の御髪が納められているそうです。

境内社もあります。祐天上人が出家を決意したときに白狐が三声鳴いたという言い伝えから、白狐を祐天上人の守護神として祀ったのが始まりです。その後4つの稲荷社が合祀されたので五社稲荷となっています。とにかく祐天寺は何でも祐天上人ありきなのですが、これはそもそも祐天上人の廟所として開基された寺院だからでしょう。日蓮空海など宗派の開祖を本尊とする寺院や、開山堂などの境内堂宇に祀る寺院は結構ありますが、開山の僧侶を本尊とする寺院はなかなか珍しいです。しかも浄土宗でというのは少し驚きました。

こちらも地蔵菩薩ですが、かなり新しいです。祐天上人の三百年御遠忌法要が行われた平成29年に開眼されたそうです。背中に書かれた南無阿弥陀仏は、江戸で大人気だったという祐天上人の名号です。

本堂は火災で消失した歴史があり、明治31年に再建されたものです。江戸末期に建てられた徳川家の位牌を祀っていた御霊殿を曳き移したため、本堂は堂内に破風があるという不思議な建築で、国の文化財になっています。本尊は祐天上人で、脇に祐海上人と祐全上人が祀られているそうです。阿弥陀三尊ならぬ、祐天三上人ですね。

本堂の左側にあるこちらは仏舎利塔とのこと。平成29年建立とまだ新しいです。祐天上人三百年御遠忌の記念事業の一環なのでしょうね。仏舎利塔は釈迦の骨が収められている塔で、真偽の程はさておき、あちこちの寺院にあります。1階は宝物殿になっているそうですが、常時拝観できるものではなく、不定期で公開されているそうです。この大きな絵は大絵馬と言い、累(かさね)伝説を題材に描かれたものです。

訪れた午後はちょうど幼稚園が終わる時間帯だったのか、境内には子ともを乗せる巨大なフードが付いた電動自転車がたくさん停まっていました。怨霊を退治する祐天上人の廟所は、300年経って子どもがはしゃいで走り回るお寺になっていました。

 

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