寺社探訪

寺社探訪とコラム

臨済宗円覚寺派 小川寺

臨済宗円覚寺派 小川寺 目次

名称・寺格

醫王山 小川寺(いおうざん しょうせんじ)と称する、臨済宗円覚寺派の寺院です。寺格は特にありません。

創建

明暦年間(1655-1658年)に、名主の小川九郎兵衛が開基、硯林が開山しました。

本尊

薬師瑠璃光如来

みどころ

山門と木々の組み合わせがとても美しく、境内の庭も見事に整備されています。

アクセス

東京都小平市小川町1-733

西武拝島線東大和」より徒歩20分

探訪レポート

とても立派な山門です。平成11年に再建されたもので、阿行吽形の仁王門となっています。由緒正しき感じが山門に滲み出ています。このあたりは武蔵野台地と呼ばれる地形なのですが、江戸時代までは水や地形に恵まれた限られた土地だけに人が入植していて、それ以外の土地は原野でした。特に当地は、「逃げ水の里」と呼ばれる不毛の地でした。

境内はよく整備されていて美しいです。山門を抜けると、六地蔵と向かい合う六地蔵が建っていました。その先に楼門があります。江戸時代に入ると、羽村から江戸に水を送る玉川上水が完成します。この玉川上水は江戸までの間にもいくつもの支流を作り、周辺地域の水脈として活躍しています。岸村(武蔵村山)の小川九郎兵衛という方が、当地の開拓を目指し、玉川上水からの分水を願い出て、明暦2年に許可を得ます。

三条松と書かれていました。小川寺は青梅街道沿いにあるのですが、当時の青梅街道は江戸に石灰を運ぶために整備された道路です。明暦の大火でその需要が急上昇した時代だったと思われます。田無宿から箱根ヶ崎宿(瑞穂町)までの20km区間に宿場がなく、行き倒れる人馬を救う馬繋場を作るのも開拓の目的でした。宿場のように人々が集まってお金を落とす場所になれば町は潤いますから、人のためになって自らも潤うという夢と希望に満ちた小川村の開拓でした。

鐘楼堂です。山門と同じく平成11年の建立です。ところで、小川寺が創建された明暦年間というと明暦の大火です。吉祥寺の武蔵野八幡宮のレポートにも書きましたが、明暦の大火で江戸の大半は焼き尽くされ、防火のために人々の武蔵野台地への居住が推奨されました。吉祥寺はそのように創られた街ですが、小川九郎兵衛率いる小川村の開拓はなかなか困難したそうです。移住者が集まらず、小川九郎兵衛が自費をはたいて住み着かせたそうです。

「現世仏 南無地蔵菩薩」「来世仏 南無弥勒菩薩」という石碑が建っています。釈迦が入滅した後、次にこの世の託されたのが弥勒菩薩なのですが、弥勒菩薩がこの世に現れて悟りを開くのは釈迦の入滅後56億7千万年後なのだそうです。まだ2500年程度なので、まだまだです。そこで弥勒菩薩が現れるまでの間、地蔵菩薩がリリーフを担当しているという感じです。

江戸時代には寺請制度があって、民衆の戸籍管理のようなことを寺院が受け持っていました。庶民は必ずどこかの寺院の檀家になって、幕府が禁止する宗教の信徒ではないことを証明してもらわなければなりませんでした。そのために新田開発で村を開拓する場合には、住民となる人々の菩提寺が必要不可欠でした。そんな訳で小川九郎兵衛は、江戸市ヶ谷の月桂寺の住職だった硯林大禅師にお願いして、小川寺を建立しました。ちなみに青梅街道を挟んだ反対側には小平神明宮がありますが、こちらも小川九郎兵衛が村の鎮守として建立しました。小平神明宮にも、小川村の歴史が刻まれています。

きれいに整備されています。薬持観音と書かれています。確かに薬壺を持った観音様ですね。なかなか珍しいのではないでしょうか。さて、そんな大変な苦労の末に小川村は誕生しましたが、夢と希望通りに馬繋場として小川村は栄え、小川九郎兵衛と住民たちはそれなりに裕福な暮らしができたようです。

村が馬継場として潤っていた証拠とされるのが、村人たちの寄進によって創られた梵鐘です。この梵鐘は貞享3年(1686年)に創られたもので、小川九郎兵衛没後18年に檀家57戸によって寄進されました。小平市文化財に指定されています。第二次世界大戦の際に戦時供用され、溶かされる寸前で留められた歴史があるそうです。

こちらの池ですが、落葉で紅く染まって見えますね。美しいのか気味悪いのか、なかなか際どいところです。一寸法師的な石像があります。どのような謂れがあるのでしょうか。

墓地の入口にこのように十三仏を並べるのは、東村山市の正福寺にもありました。多摩北部地域の流行でしょうか。六地蔵を安置するのが圧倒的に多いのですが、十三仏だと倍以上なのでズラッと並んでいる印象を受けます。

こちらが本堂です。現在の本堂は大正5年に建てられたものです。華美でなく臨済宗らしい佇まいです。本尊は薬師瑠璃光如来です。ちなみに本寺である月桂寺の本尊は釈迦如来で、本山の円覚寺の本尊も釈迦如来です。臨済宗寺院で薬師如来を本尊とするのは珍しいのかと言うと、そんなことはありません。

本堂の前の庭もきれいに創り込まれています。千手観音像ですね。右にあるひょうたん型にくり抜いた石板が良いですね。私が仕事をするエリアでは臨済宗だと建長寺派が多くて、円覚寺派はほぼお目にかかりません。臨済宗には多くの宗派がありますが、これは1つの臨済宗が分派したというよりは、中国や朝鮮半島臨済宗を様々な人が別々に日本に持ち込んだという感じです。京都五山鎌倉五山と呼ばれるように、鎌倉室町時代武家の間で信仰を集めて格付けされました。ちなみに建長寺派鎌倉幕府5代執権北条時頼が中国から招いた蘭渓道隆を始めとする宗派で、円覚寺派鎌倉幕府8代執権北条時宗が中国招いた無学祖元を始めとする宗派です。

これだけの景観を維持するのは檀家さんの支えも大変だと思いますが、法事などで親族を本堂に招く際には、このように立派で美しいお寺が菩提寺であることは、誇らしいことではないかと思います。ただ、私がかつて見た小川寺の写真に比べると木々の緑がかなり少なくなっている印象です。おそらく出入りの植木屋さんがいらっしゃるでしょうから、意図的なものだと思います。

私財を投じて小川村を開拓・発展させ、小川寺や小平神明宮を建立した小川九郎兵衛は、病気のために家督を婿養子に譲って、故郷の岸村に帰り、岸村で人生を終えたそうです。どうして心血を注いだ小川村を離れたのか? ひと筋縄では行かなかった開拓の苦労の末に行き着いた九郎兵衛の心境は、私ごときが推し量るべきもなし。岸村に埋葬された九郎兵衛の遺骨は、孫によってこの小川寺に分骨されています。ひと際立派なそのお墓は小平市文化財になっています。

 

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