寺社探訪

寺社探訪とコラム

浄土真宗東本願寺派 東本願寺 

 

浄土真宗東本願寺派 東本願寺 目次

名称・寺格

浄土真宗 東本願寺派 本山 東本願寺 と称します。通称、浅草本願寺や東京本願寺と呼ばれています。浄土真宗東本願寺派の本山です。

創建

慶安4年(1651年)に東本願寺第12世の教如が、神田に江戸御坊として光瑞寺を建立しました。その後に京都の東本願寺の別院となります。

本尊

阿弥陀如来

ご利益

浄土真宗なので、阿弥陀仏の導きにより良き方へ進むというものです。

みどころ

本堂には椅子がたくさん並べられていて、巨大で神聖な空間で特別な時間を過ごすことができます。

アクセス

東京都台東区西浅草1-5-5

東京メトロ銀座線「田原町」徒歩5分

探訪レポート

当ブログでは初の宗派の本山への訪問です。浄土真宗は多岐に分派していますが、西とか東とか、なんとなく把握している方が多いのではないでしょうか。何と言っても浄土真宗系は信徒数が最も多い宗派ですから、我が家は浄土真宗という方は多いです。では浄土真宗何派なのか、他に何派があって何が違うのか、というのは知らない方も多いです。

浄土真宗系の教義は「阿弥陀仏にお縋りする」ことに集約され、多種多様な仏を祀ったり拝んだりしません。なので、当ブログでも訪れた浄土真宗本願寺派築地本願寺でも同じですが、大きな本堂があるのみで、他にご紹介するような堂宇がほぼないのです。

こちらは宗祖の親鸞上人像です。教科書では教わらない豆知識ですが、実際には浄土真宗親鸞が開いた宗派ではなくて、親鸞の没後に弟子たちが親鸞を宗祖として作った宗派なのです。鎌倉仏教の中でも後発の宗派になるので、教義が単純化されてわかりやすく、より一般民衆に寄り添うようになっています。宗教は社会に影響を及ぼしますから、時の為政者たちは保護したり弾圧したりしてきたのですが、宗派側でも僧兵など武力を持って戦った歴史があります。浄土真宗は数ある宗派の中でも武装集団として軍を抜いていた宗派で、織田信長と戦うほどの勢力を持っていました。

手水舎は使用禁止でした。さて、浄土真宗はよく知られるように西と東の二大宗派があります。「お西」は浄土真宗本願寺派西本願寺)で、「お東」は真宗大谷派東本願寺)という二大宗派があるのですが、浄土真宗系は全部で30以上もの宗派に分派していて、その中に今回訪問している浅草の東本願寺を本山とする浄土真宗東本願寺派があります。ちなみに西と東に分かれたのは江戸時代の初期で、戦国時代に武装集団として厄介だった本願寺勢力を分割して力を分散させようとした徳川家康の政策と言われています。

西と東は違っても同じ浄土真宗なので、本堂の内部は築地本願寺とよく似ています。天井の高い広い空間には、正面の本尊に向かって椅子がたくさんが並んでいました。

さてさて、江戸初期に神田に創建されて浅草に移転した浅草本願寺は、京都の東本願寺にとって江戸御坊という存在で、昭和の時代には東京別院として、真宗大谷派の東京総支部のような立場でした。お西の浄土真宗本願寺派でいうと、築地本願寺と同様の立場の寺院ですね。ところが昭和40年代に入ると、真宗大谷派内で対立が起こります。「お東騒動」などと言われていますが、私的にはフランス革命や日本の皇族のような歴史ロマンを感じます。

浄土真宗親鸞の子孫である大谷家が代々法主として絶対権力を握ってきました。大谷家に権力が集中しすぎることに反発した改革派が、選挙で選ばれた全国の僧侶の代表による宗議会と信徒の代表による参議会に宗派運営の権限を移し、絶対権力を持っていた「法主」に代わって象徴的な地位の「門主」を置くことを主張しました。んー、本当にフランス革命のようであり、日本の皇族のようであります。そして、大谷家の血脈を重視する保守派との間で対立が起こります。これが歴史ロマンではなく「お東騒動」とちょっと揶揄するような言われ方をするのは、残念ながら見るからにお家騒動になっているからです。

こちらは寺務所的な建物です。ちょっとコンクリートが黒ずんで見た目が悪いです。本山としての宗務機能を持つ真言宗豊山派護国寺や浄土宗の増上寺にも、宗教施設とは違う大きな建物がありますね。この建物の裏側には幼稚園があります。

お東騒動に話を戻しますと、絶対権力を持つ第24代法主の大谷光暢が、宗務当局に無断で長男の光紹に真宗大谷派の管長を継承させると発表したことから、反対派が改革派となって騒動に発展します。結局、現在の真宗大谷派(京都の東本願寺)は改革派が制し、光暢光紹親子率いる保守派は、光紹が住職を務めていた浅草本願寺を真宗大谷派から分派独立させて、従った三百数十カ寺を率いて浄土真宗東本願寺派を結成し、第25代として光紹が法主となりました。

では、改革派の方はと言うと、権力者から議会に主権を移し、民主主義的運営をするのは良いが、象徴的門主を設けることになったので、誰が門主になるかで思い切りゴタゴタします。民主主義なんだから議会の代表の代表、つまり総理大臣的立場の人じゃダメなのかと思いますが、新生大谷派が求めたのは、総理のような牽引力ではなく天皇のような求心力なのでした。という訳で、改革派の新生真宗大谷派は、その象徴的門主親鸞の血を引く大谷家に求めます。まぁ「大谷派」ですし…。白羽の矢が立ったのは浄土真宗東本願寺派法主となった光紹の長男の大谷光見です。光見は父親の跡を継ぐべく浄土真宗東本願寺派の新門(次期法主指名を受諾した人)に就任してしまったので、光暢の次男大谷暢順の子の業成を指名しました。しかし業成はまだ未成年だったので、第22代の大谷光瑩の次男の子である大谷演慧が門主代行として就任しました。ということで大谷派の25代目はまだ決まりません。

この黄色い建物が、昔は葬儀式場だったのです。現在は室内墓地として運営されています。建物の屋上に鐘楼の屋根がちらっと見えてますね。おそらく独立した東本願寺派が資金を調達するための手段のひとつとしたのが、墓地運営だと思います。本堂の裏側にあった墓地がどんどん本堂の横に広がって来て、かなりの部分まで前に出てきています。この本堂周りの区画は、本山の本尊のお側に埋葬ということで目玉が飛び出すほどの高額で売り出されていました。このままでは本堂が墓地に囲まれてしまうと思いながら見ていましたが、室内墓地にシフトして大々的に販売しているようです。私には手が出ませんが、後継者がいなくても安心な墓地になっていました。

さてさてさて、第24代光暢が亡くなり、とりあえず門主代行で繋いでいた真宗大谷派ですが、新門主となるはずの業成が父親の暢順と共に真宗大谷派を離脱し、暢順は布教や教学のために設立された本願寺維持団体の理事長になり、東山浄苑(墓地)の経営に乗り出します。結局はそこから新たに浄土真宗大谷本願寺派という新宗派を立ち上げます。もう、門主代行の演慧に継いでもらえば良いのでは? と思われますが、結局真宗大谷派の第25代門主となったのは、24代光暢の三男暢顕です。結局は光暢ファミリーの三男が継いだということで、お家騒動の要素が色濃く映ります。私見ですが、これは光暢の妻が東久邇宮邦彦王の第三王女で香淳皇后の妹にあたる智子女王だというのが大きい要素だと思います。宗派運営に権限を持たない象徴的な門主ですから、なるべく多くの人から慕われる求心力が欲しかったと思われます。皇族の血を引き、昭和天皇の甥となった光暢の子であれば、象徴として申し分ないと考えたのでしょう。

わかり辛かったかもしれませんが、以上が世にいう「お東騒動」です。結局、真宗大谷派は24代大谷光暢の息子たちによって4つに分派したのです。長男光紹が浄土真宗東本願寺派の第25代法主、次男暢順が浄土真宗大谷本願寺派第25代法主、三男暢顕が真宗大谷派第25代門主、そして、四男光道が真宗東派第25代法主というバラバラ加減です。まさにお家騒動ですね。

四男光道の真宗東派について説明してませんでしたが、京都の東本願寺の庫裡の居住権を巡って諍いがあり、和解して立ち退く代わりに嵯峨に土地を得て宗教法人として独立します。24代光暢の死後「先代の遺言通り東本願寺の跡を継いで、東本願寺を嵯峨に移転したのです」ということで、四男光道は嵯峨本願寺を本山とする真宗東派の第25代法主となりました。

ともあれ、浄土真宗の寺院ですので、建物や堂宇を見て回るというよりは、本堂の中に入って椅子に座り、静かに時間を過ごして心を整えるというのが正解だと思います。

 

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