寺社探訪

寺社探訪とコラム

「葬送のしきたり」

お葬式には、風習、慣習、習俗、しきたりなとがたくさん関係してきます。それぞれに意味があって行われていることですが、その内容が諸説あって曖昧なベールに包まれ、何が正しいのかわからない。何年経験を積んでも、捉えきれない分野となっています。初めて見る風習があったら、向学心を持って調べたり先輩から教わったりします。学べたと思っていたら、別の機会には違う説が浮上します。いろんな説が出てきて、どれも正しいと信じられて行われています。結局正解がわからずフリダシに戻ります。

だからといって、省略は簡単にはできません。それが正しい風習か否か、意味のある慣習か否か、ということはさておき、その地域やその家系においては、長年に渡って続けてきた伝統になってしまっています。父も祖父もご先祖も同じやり方で受け継いできたものを、たったひとりの考えで変えるのは至難の業です。他の地域は関係ない、他の家系は関係ない「ここだけのしきたり」が葬儀には存在します。

嫁いだ家系に、葬儀の際には嫁だけが働くというしきたりがあって、義母や義姉妹は何もしないで嫁ばかりお茶出しや雑用をさせられるのはおかしいという話を聞きました。現代の社会感覚だと、嫁の訴えが正当だと擁護され、義母義姉妹は叩かれてしまいます。しかし、事件は会議室で起きているのではなく、現場で起きています。おそらくこの家では誰も疑問もなく当然のこととして、嫁だけを働かせているのだと思います。きっと、この家に嫁いできた義母も、同じように働いてきたから、その伝統を受け継いでいるだけです。そこで嫁がひとり、この家のしきたりはおかしいと反旗を翻しても、理解されず辛い思いをすることでしょう。こういう場合は、その嫁が義母の立場になったとき、その伝統を受け継がなければ良いのだと思います。理解されるかどうかはわかりませんが、少なくとも嫁に自分が感じた不条理を受け継がせないことはできると思います。

また、例えば123という順序で行うことが一般的な方法でも、その地域では132という順で行うことが当たり前だとします。事前に確認できれば良いですが、葬儀の全てを事前確認したりリハーサルしたりすることはできないので、本番で葬儀社が123の順で進めると、遺族が驚いて怒ってしまうことがあります。世の中のほとんどの人が123の順でも、その地域が132なら、正解は132です。

葬儀には強力なローカルルール「ここだけの風習」も存在して、周囲では知る人がいなかったり、おかしく見られることでも、そのコミュニティの中では疑う者すらいない伝統となっていることが多々あります。私が見た風習やしきたりですと、納棺の際に豆腐を食べたり、出棺と同時に茶碗を割ったり、逆さにした石臼の絵に座ったり、屋根に登ったり、方違えをしたり、葬儀式の前に火葬をしたり、などなど、知らない人なら驚くようなことも、厳かに当たり前に行われています。

葬儀社側から見ると、この滅多にお目にかからない風習を、遺族親族は当然のことと思っている点が難しいところ。地雷のようなもので、踏む前に見つけることが困難で、踏んでからでは取り返しが付かない。なんとなく過ぎゆく瞬間も、遺族は今どんな心境で、何を希望しているのだろうかと、常に観察して考えることが大切です。

また、棺を家から出す場面では、一軒家であれば、可能な限り玄関ではなく縁側から出すという風習があります。これは、死穢思考(死を穢れとし畏れる考え)から来ているもので、家から出た霊が再び戻らないように、玄関を使わない風習です。平安時代の貴族は、わざわざそのために屋敷の壁を潰して仮門を作っていたそうです。住宅事情で難しくなってきていますが、地主や旧家などでは縁側から棺を出す習慣がまだ残っています。しかし、これも地域性があって、ある地域では古くからの土地の人なら説明しなくても縁側から出そうとしますが、隣の市では、古くからの土地の人でも「そんな話聞いたことないぞ。玄関から出すのが当然だろ」と言われます。これは、知らないのではなく、本当に縁側から出す習慣がないのです。昔はあったのか、昔から無かったのかは知りませんが、書籍に載っているようなことでも「ここだけの風習」でしかないのです。

習慣やしきたりだけでなく、宗教儀礼も同じで、厳格な決まりごとがあるように見えて、とてもいい加減だというのが私の印象です。宗派によって違うから難しいと言う人もいると思いますが、もっと難しいのは、同じ宗派でも同じではないという点です。

東京で葬儀の仕事をしていると、かなり遠方から菩提寺がやって来ることがあります。関東以外からわざわざ檀家の葬儀のためにやって来るのですが、本番になってトラブルにならないために、菩提寺の住職からどのような準備をしておけば良いか注意点を聞いておきます。「普通に○○宗の準備をしておいていただければ大丈夫です」なんて言われると、超危険です。□□県の普通という感覚と、東京の普通という感覚は、おそらく違っているからです。当日になって住職から、あれを用意してくれ、これを変更してくれと言われても、間に合わないかもしれません。

地方による差だと、まぁ理解できますが、同じ宗派なのに寺によって違ったり、僧侶によって違ったりすることもしばしばです。それでも一般的には、厳格な決まりがあるように見えるので、人々は正しい方法を知りたいと思います。ある時、神葬祭神職さんから喪主の立て玉串の作法を教わりました。しばらくして、その同じ神社で神葬祭があり、喪主さんに立て玉串の方法を説明したら、本番の通夜祭で喪主が立て玉串をする際、神職さんがその場でその作法を訂正したのです。私は通夜祭の後、喪主に呼ばれ怒られました。恥をかかされたと、それ以降は私の言うことを全く聞いてくれなくなりました。私は神職さんに作法について、以前教わった方法を聞いてみたら、「ああ、それですか? どっちでもいいですよ~」と軽い返事でした。じゃあ、なんで訂正したの? と問い詰めたい気持ちを抑えて、同じ宗派、同じ寺社のみならず、同じ人でも違う場合があると学びました。

 

おそらく人類の歴史とほぼ同じ位、信仰の歴史があり、葬送の歴史もあると思います。その長い歴史の中で受け継がれてきたものが、今の信仰や葬送のしきたりに繋がっていると思います。その葬送のカタチは、発明と衝突の繰り返しで、常に変化し、幅を広げてきたと思います。きっと現代では、加速度的に変化し広がっているでしょう。地域や家系によって違うから、宗派や寺社や人によって違うから、共通の定義ができない。つまり、厳格な正解など存在しないのに、これが正解であるかのごとく、人々は大真面目に様々な儀礼や作法を行い、受け継いでいく。というのが葬儀なのかなと思う。

否定的な言い方に思われるかもしれないが、そうでもない。私自身は、そんな曖昧で正解のない信仰や風習が好きです。ただ、世の中から厳格な正解があるように見えていること、世の人々がその(存在しない)厳格な正解に従いたいと思っていることが、事象を難しくしていると思います。葬儀は、伝統によって定められたものに従っているように見えて、実は常に違った新しいものを創り出しているのだと感じます。創り出された新しい葬儀は、伝統という箱に収められて次の時代に渡されます。こう書くと、なかなか意義のある仕事をしていると思えます。

 

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