寺社探訪

寺社探訪とコラム

コラム「マンション坊主は悪か」

いきなり私事ですが、退院したら梅雨と緊急事態宣言で、ほとんどお参りもできない毎日。そんな訳でコラムばかりが続きますが、どうぞお楽しみください。

 

お葬式を出す際に、菩提寺や付き合いのあるお寺がない場合、葬儀社から紹介してもらったり、ネットの僧侶派遣サイトに頼んだりすることができます。葬儀費用のパック料金の中に僧侶の費用が含まれているものもあります。

このような紹介僧侶の場合、頼んだ遺族と手配された僧侶は、そのお葬式のみの契約になり、今後のお付き合いというのは基本ありません。お葬式を終えると、すぐに四十九日法要がやってきて、またすぐに1周忌、新盆など、供養が必要になる場面がやってきます。その後も同じ僧侶に頼むことは可能ですし、葬儀社や僧侶派遣サイトでまた新たに頼むことも可能です。希望した戒名のランクなどでお布施の金額が違ってきますが、基本的に事前にお布施の全額がわかる明瞭会計です。

この僧侶紹介は葬儀社や僧侶派遣団体のボランティアではなく、ビジネスとして成り立っています。遺族が支払ったお布施を、そのまま僧侶が受け取り、仲介手数料を葬儀社や派遣団体に支払う仕組みがほとんどです。手数料の割合は個々の契約によってバラバラです。

僧侶派遣の仕事を受けている僧侶には、住職親子以外にお勤めの僧侶がいるような大きな寺院の僧侶もいれば、宗派の総本山と繋がりがない単立寺院の僧侶もいれば、かつて勤務していた寺院や、知人の寺院の名義を借りて、マンションやアパートに住んでいるフリーランス僧侶もいます。僧侶は無資格業種なので、どんな修行(勉強)をどれだけした人なのかは、どこに所属の僧侶であれ、なかなかわかりません。

そんな僧侶の中でも、自坊を持たない僧侶は「マンション坊主」などとマスコミなどに取り上げられ、問題視されてきました。どうしてマンション坊主が生まれるかと申しますと、僧侶という職業がほとんど世襲だからです。志があって僧侶になろうとしても、そう都合よく後を継げるお寺が見つかりません。また、余程の資産家でなければ1から寺院を建立することは難しいでしょう。運が良ければ、跡継ぎがいない寺院に婿養子に入るという方法がありますが、そう簡単にご縁がある訳でもない。他に空いている寺院というと、生きていけないくらい過疎化した地域の寺院など、茨の道がほとんどです。そんな訳で、生きていくために葬儀社と契約したり、派遣型の僧侶紹介サービスに加盟したりしているのです。私の知る中にも、自営業やサラリーマンから僧侶に転職して自坊を構えた方がいらっしゃいますが、そんな方はごく稀ですし、全てのマンション坊主が自坊を構えることを目標にしているとは限りません。膨大な費用や運営コストを考えると、安価で気楽に頼める需要に応えるために、身軽なままでいるという方もいます。

お寺のない僧侶となると、利用者としては敬遠したくなります。お寺の本堂や伽藍は、信者にとって心の拠り所となります。以前とある葬儀社で、マンション坊主を紹介した遺族から「四十九日まで、七日ごとに本堂にお参りしたい」と言われて困ったという話を聞きました。

では、なぜそんなフリーランス僧侶が活躍できるのか。そもそも僧侶の世界というのは一般社会とは違っていて、「格」がモノを言うところです。寺の格、僧侶の格。僧侶が檀家から財施(お金による施し)を受ける代わりに、法施(仏法による施し)を与えることで成り立っている関係です。実態のない仏法が財施と釣り合って有り難くあるために、威厳やプライドを纏った格式高い寺の格式高い僧侶である必要があります。そのため、こだわりが強く考えを曲げない、他人の都合に合わせない、「オレ様」僧侶が出来上がるのですが、葬儀社が求めるのは僧侶の満足ではなく遺族の満足なので、遺族が希望することを何でも聞いて合わせてくれる僧侶を紹介したいのです。消費者感覚の遺族も同じですよね。対価を支払う感覚でお布施を出す人は、支払う金額の割りに合わない格の高い僧侶より、安価で希望を実現してくれるリーズナブルな僧侶が望まれる場合があります。そんな要望にフリーランス僧侶は応えてくれます。本当に僧侶なのかと思うほど、遺族と葬儀社を上手に持ち上げて仕事を得る、やり手の営業マンのような僧侶もいます。

 逆に菩提寺にお墓があるために、気に入らなくても付き合い続ける人もいます。こういうお寺は、1件の檀家だけでなく、ほとんどの檀家と関係が悪く、先祖代々の墓が人質のようになって、お互いに文句を言いながら寺檀関係を続けているところが多いです。「墓じまい」という言葉がこれからもっと流行すると思いますが、そんな代々付き合ってきたお寺との縁を切ってしまおうという人もだんだん増えているようです。

そもそもどうしてこんな現象が起きているのか、というと、「葬式仏教」という言葉があるように、日本の仏教や僧侶は、お葬式のみに活躍の場を限定されてしまった歴史があるからです。お葬式にしか価値を発揮できない僧侶が悪いのか、お葬式にしか仏教を求めない民衆が悪いのか、どっちもどっちですが、そのような宗教観が形作られてしまったのです。だから、僧侶はお葬式でしか民衆に対して価値を発揮できないので、そこで生活の糧を得るしかありません。超お葬式特化型仏教です。だから、様々な立場とアプローチの方法で、僧侶はお葬式を通じて金銭を得て、社会生活を営んでいるのです。大本山とか別格本山とかに位置付けられた由緒正しき格の高い寺院の、大僧正様、阿闍梨様が有り難いと望まれる場合もあれば、リーズナブルで痒いところに手が届く、フリーランス僧侶が必要な場合もあるというのが現実です。

施設として寺院を持っていないマンション坊主は、親の跡を継ぐでもなく、自ら選んで僧になった人たちです。生活のためにその志を変遷させて、サービス業の営業マンのようになった人もいますが、心の芯に仏教に対する求道心を持って、良き知識と経験を積んでいる方もいます。むしろ、譲ることを知り、変化に寛容な僧侶がいるのも「マンション坊主」の特徴です。

お墓を人質のようにして、ひとつのお寺と付き合っていく時代は、遅かれ早かれ終わりを迎えるでしょう。その後は、家系ではなく、個人がお寺や僧侶やお墓を選ぶ時代が来ると思います。自分が望む僧侶ってどんな人だろうか? 真剣に考えてみたら、自分と仏教の付き合い方が浮かび上がってきます。「うちの家系はこうだから」というのではなく、私はどうしたいのか? そこを求めるには、ちゃんと考えなくちゃ答えが出せません。そして、その先に、理想の僧侶にめぐり逢えたらいいですね。