京王線の高幡不動駅から徒歩でアクセスできます。駅前のロータリーから商店街になっている参道を歩いて数分といったところです。入口付近の川崎街道沿いと仁王門の隣の建物に、お土産屋さんやお饅頭屋さん、お蕎麦屋さんなど、観光地らしき風景が見られます。私は仕事で訪れると、だいたいお饅頭を買ってしまいます。今回は夕方に訪れたので、写真がひどい逆光になっていてすみません。
高幡不動尊として有名ですが、高幡山明王院金剛寺と言います。真言宗智山派の別格本山で、関東三大不動のひとつに数えられます。この三大〇〇の3つ目というのは、「曖昧」かつ「自称」かつ「複数」というのが定説です。関東三大不動も、有名な成田山新勝寺とこの高幡不動、そして3つ目は、埼玉県加須市の不動ヶ丘不動、または神奈川県伊勢原市の大山不動、または埼玉県飯能市の高山不動となっています。まさに「三大関東三大不動の3つ目」状態になっています。
仁王門はかなりの年代物で、仁王門も仁王像も、室町時代の作です。川崎街道に面してドカンと建っているので、かなり目立ちます。高幡不動は諸説ありますが、平安時代に円仁によって建立されたという伝承があります。これまで当ブログで紹介した行基、良源や源信と共に、円仁も歴史的に重要な僧で、慈覚大師と呼ばれています。ちなみに諸説の中には、奈良時代に行基が建立したという伝承もありますが、円仁建立説が有力のようです。
円仁は、比叡山で伝教大最澄の弟子となります。ラスト遣唐使として唐に短期留学しますが、帰国拒否して不法滞在しながら、五台山や長安で様々な仏教を学びます。最澄や空海が持ち帰ることができなかった経典を数多く学び、日本に持ち帰りました。まさに求道の人で、次々に知識や技術を身に付けていく超優等生。いつしか最澄の跡継ぎのような存在となり、実際に第3代天台座主として、比叡山を継いでいます。
そんな円仁は日本に帰国後、名だたる寺院を次々に建立しているので、この金剛寺もそうかもしれません。ただ、円仁は天台座主になった人で、高幡不動は真言宗智山派の大本山という、それぞれ別々の道を歩みました的な未来になっています。元々山中に堂宇があったそうですが、室町時代に大風で壊滅して、麓に移したとのこと。だから、仁王門が街道に直結していて、境内は段々畑のように、階段的に上に上がる感じです。仁王門を入って最初の階には、左に手水舎、右には護摩供養の受付や御守りなどが売っている宝輪閣、正面に不動堂が建っています。
不動堂は改修工事中でした。この不動堂の真後ろに奥殿が建っていて、本来不動堂にあったはずの丈六不動三尊像が奥殿に安置されています。本堂である大日堂にあったはずの大日如来像も奥殿に収蔵されています。というのも、奥殿は宝物殿的な建物で、文化財に指定されたような寺宝を展示しています。拝観料千円だったような。
奥殿の2階には、丈六不動三尊像が安置されていて、覗いてみると、すごく大きくて迫力満点です。では疑問なのが、本来の不動堂には何が安置されているのか、ということです。これは、いわゆる身代わり本尊というもので、後世作成されたレプリカのようなものを安置しているそうです。レプリカというと紛い物のようですが、同じものを作ったということですね。
不動三尊というのはあまり聞かないのですが、〇〇三尊というのは仏教ではよくある言葉で、本尊となる仏像と脇侍をつとめる2体の仏像の組み合わせです。この組み合わせが、基本的に決まった組み合わせになっています。不動三尊は、中央に不動明王、向かって左に制咜迦童子(せいたかどうじ)、右に矜羯羅童子(こんがらどうじ)を配した組み合わせです。
ここまで紹介した建物は、仁王門を含めて境内の中心を直線に貫く通路の右側にあるものばかりです。左側には何があるのかと言いますと、まず、目に入るのが新撰組副長の土方歳三の銅像です。このあたり(日野市)は土方姓の多い地域で、ここ高幡不動金剛寺は土方歳三の菩提寺になるそうです。墓所は金剛寺の末寺にあたる石田寺にあるそうです。生誕地の菩提寺ということで、書簡などの資料が寺に残されていて、近藤勇と土方歳三の両雄の碑も銅像のそばに建っています。ちなみに近藤勇は日野市から少し都心寄りの調布市の生まれで、生誕地の上石原にある天台宗西光寺に銅像があります。
土方歳三像の隣には弁天堂があります。作り込まれた感満載の弁天池もあって、いかにも弁財天という感じです。
さらに外側へ移動すると、駐車場があるのですが、駐車場に隣接するのがこちらの建物。交通安全祈願殿というそのままの名称ですが、扁額には降魔殿と書かれています。ちなみに降魔とは、魔を降ろすという意味に捉えられがちですが、どこかに悪魔の居場所があって、そこから悪魔を呼び寄せる霊媒師の所業のことではありません。降魔とは、釈迦が悟りを開くときに行った禅定(瞑想)の中で体験した、悪魔の誘惑に打ち勝って、悪魔を降伏することです。高幡不動は交通安全祈願で有名なようで、私が訪れた時は、かなりの台数の車が前向き駐車で祈願の時間を待っていました。
こちらは弁天池に咲く蓮の花です。いくつか蕾が膨らんでいて、ちょうどこれから咲くところでした。
段々畑のような境内を一段上がったところにある五重塔です。 こちらは新しく、なかなか逆光で分かりづらいですが、色彩もとても綺麗です。
中央の通路をまた横切って、奥殿の外側に来ると上杉堂があります。これは上杉憲顕(憲秋)という室町時代の武将のお墓です。室町時代の政治の中心は京都ですが、鎌倉幕府の名残もあって、関東にも半端な政治拠点があり、鎌倉公方vs関東管領という勢力争いばかりしていたようです。上杉家はその勢力争いの主役級の家柄で、代々に渡って争っていました。上杉憲顕という人も勢力争いの合戦で深傷を負い、高幡不動の地で自刃しました。この勢力争いは百年規模で争っているので、命を落とした武将はたくさんいるのだが、高幡不動で亡くなったばかりに、現代までこうして弔われて、運が良いやら悪いやら、という方ですね。
また中央の通路を跨いで さらに上の段へ上がると、大師堂があります。中にまだ新しげな弘法大師像が安置されてありました。
大師堂の隣には聖天堂があるのですが、 大師堂と聖天堂は同じ造りです。これは、ふたつとも、同じ火災で焼失し、同時に再建したからです。だからといって造りまで同じにしなくても良かったと思いますが、わざわざ別にする理由もなかったのでしょう。聖天堂というからには歓喜天を本尊にしているのかと思いきや、なんだかよくわからなかったです。もしかしたら大自在天と柱に書いてあるので、インドのシヴァ神かもしれません。この辺は奥深すぎて理解できる知識がありません。
すると、坂の途中に突如現れたお姿、こちらは私にもわかります。観音菩薩様ですね。木々の中にひょっこりで、びっくりしました。
そして、山門の右側にあるのが、このお社です。保護のために社を囲ってずいぶんな丁重ぶりですが、五部権現社と言います。源頼義が東国反乱制圧の際に、金剛寺の境内鎮守社として、八幡社を創建しました。その後、稲荷、丹生、高野、清瀧権現を合祀して、5つの権現を祀る社として五部権現社と呼ばれています。神仏習合のお手本のように、かつて5つの神牌が社殿に安置されていて、それぞれ本地仏の垂迹神が記されていたそうです。
八幡大菩薩(八幡神)=金剛薩埵(真言密教では大日如来に次ぐ第二祖となる菩薩)
清瀧大明神(醍醐寺の守護女神)=如意輪観世音菩薩
と、どこにでもいる八幡と稲荷を除けば、真言宗オールスターのような顔ぶれです。
山門は大きくはないが凝った造りで、細かい彫刻も施されています。この先は本堂である大日堂と茶室があるだけなのですが、こんなところに山門なのですね。もしかしたら、昔は山中に堂宇があったそうなので、かつてはみんなこの山門より奥にあったのかもしれませんね。
大日堂は、派手さがなく静謐な佇まいです。こちらは鳴き龍と呼ばれる天井絵が有名です。堂内で手を叩くと、反響して天井絵の龍が泣いているように聞こえるというものです。本堂に上がるには拝観料が必要ですが、すごく安かったような。
仁王門から、一番奥の大日堂まで歩きましたが、高幡不動はまだまだ広くて、この堂宇が並ぶ境内の左側に、同じくらいの広さの山林が広がっています。この山林内に山内八十八ヶ所巡拝コースがあります。高尾山にも同様のものがありますね。他に四季の道やハイキングコースがあって、一番上に鐘楼堂があります。今回は山林内には入ってませんが、いつか挑戦してみたいと思います。
住所:東京都日野市高幡733
創建:平安時代初期
開山:円仁 (清和天皇 勅願)
中興:義海
宗派:真言宗智山派
寺格:別格本山
本尊:大日如来