寺社探訪

寺社探訪とコラム

将門の魔方陣巡礼1

都市伝説系のバラエティ番組などで多く取り上げられている平将門の魔方陣、いつか訪れてみたいと思っていました。ただ、怨念を鎮めるために神格化された神々の中でも、将門は群を抜いて強力な印象があります。ただ探訪するだけでなく、平将門の生きた姿が伝わるようなレポートができればと思います。

将門の魔方陣巡礼1 目次

鳥越神社

所在地:東京都台東区鳥越2-4-1

創建:白雉2年(651年)

御祭神:日本武尊命 相殿:天児屋根命 徳川家康

将門との関連:宮司家が平将門の子孫である千葉氏族にあたるとされ、先霊社に将門の霊を祀っていると伝えられてきた。

この日は夏越の大祓だったので境内に茅の輪が設置されていて、近所の氏子地域の方らしき人々が、軽装で訪れていました。皆さん社務所に人形(ひとがた)を納めて、茅の輪くぐりの列に並んでいました。地域住民と共にある典型的な氏神様という印象を受けました。境内を歩いて、将門との関連を探してみます。社務所周辺にはたくさんのポスターや張り紙がありましたが、将門関連のものはなく、神社としても将門との関連をアピールしていないようです。

本殿の後ろ側に祖霊舎がありました。建物は同じではないでしょうが、この祖霊舎に将門がお祀りされていたという逸話があります。この神社はかなりの古社で、日本武尊が東征の際にこの地にやってきたことに因んで、651年に日本武尊を祀って白鳥明神としたのが始まりとされています。その後、奈良時代にこの地に国司として赴任した藤原氏が、祖神である天児屋根命を祀ったそうです。平安後期に東北地方で起こった前九年の役の制圧のために源頼義・義家親子がこの地に来た際、白い鳥が飛ぶ位置から浅瀬の場所を知ることができ、大軍の移動に役立ったことを白鳥明神のご加護として、鳥越大明神の社号を奉った。将門の子孫一族が宮司家であるということ以外、何か形として境内のどこにも平将門に関するものが見当たりませんでしたが、ここが将門魔法陣と呼ばれる北斗七星の最初の場所です。

 

平将門の生きた時代

平将門の生涯は延喜3年(903年)~天慶3年(940年)とされています。この時代の日本は、京に都がありました。朝廷を国政の中心に、役人が各地方に派遣され、法律を整備し、税を徴収することで国家を運営していました。この律令制は、機能しない部分を改革したりしながら変遷して、貴族→武士に政権の担い手が移りゆく中で、だんだんと形を変えていって、鎌倉時代から江戸時代には消滅したと言われています。平将門が生きた時代も、完全な律令制が機能した世の中ではなく、藤原氏を中心とした中央の覇権争いから離脱した貴族たちが地方に移って覇権領域を築き、それを守るために武装化したり戦闘したりする世の中でした。これが武士の始まりとされ、将門の生きた時代は、貴族から武士へ移りゆく社会の最初のきっかけと位置づけられています。

 

平将門の一族

桓武天皇の孫(ひ孫説あり)の高望王臣籍降下して平高望になって上総介に任官したことから始まります。当時は京都が日本の中心で、藤原氏が皇室と親戚関係を結び権力を握っていました。貴族の中には、地方の役職を与えられても、代理人を派遣して、自身は京都にいるという場合もあったそうですが、平高望は長男国香、次男良兼、三男良将を伴って、任地の北関東へ移り住みました。そこで地元の有力な豪族と親戚関係を結んで、未墾地を開拓し勢力を拡大定着させていきました。常陸国の豪族の源護は、3人の娘をそれぞれ国香、良兼、良正(母の違う高望の子)に嫁がせていました。当時は長男が家督を継ぐという習慣もなく、長男の国香は常陸国、次男の良兼が高望の後を継いで上総国、三男の良将は下総国を支配していました。平高望親子は、任期が過ぎても帰京しないで、北関東に築いた勢力を拡大させていきました。平将門下総国を支配していた三男の良将の子として生を受けました。

 

一族間の争い

平将門の父の良将は、東北地方(陸奥国)の鎮守府の長官にあたる鎮守府将軍でもあり、広範囲の権力を有していましたが、それでも当時は京都中心の世の中ですから、将門自身は官位の低い貴族でしかなく、15歳頃から平安京に出て、京の権力の中枢にいた藤原忠平を主君として仕え、12年間京で過ごしました。それでもやはり京都では望んだ職に就くことも難しく、父の後を継ぐべく北関東へ戻ります。しかし父の死後、父が治めていた地域は伯父の国香と良兼に分割されてしまっていて、このあたりから一族間での争いが始まります。近い親戚同士が土地を開拓しまくって、それを守る武士団を形成しているので、他にも争いの種になることはいくつかあったと思います。構図としては、将門VS伯父(国香・良兼・良正)という闘いが幕を開けます。先述の北関東の豪族、源護も絡んでいます。源護は娘を国香、良兼、良正に嫁がせていますから、もちろん伯父軍団側です。将門も平真樹という北関東の豪族の娘を嫁にしていて、平真樹は将門軍団側です。

 

藤原氏が京で天皇と親戚関係を築いて絶大な権力を握っていた頃、地方では税を収めて朝廷に従いながら、私財を蓄えた地方役人が武力を備えて貴族→武士という流れを作りつつありました。この続きは、将門魔法陣を巡りつつ、解説していきたいと思います。

 

ーーーーーーーーーーーーーーー

ランキング参加中(よろしくお願いします)

にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村

神社・仏閣ランキング
神社・仏閣ランキング