寺社探訪

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「将門の魔方陣巡礼5」

将門の魔方陣巡礼5 目次

築土神社

所在地:東京都千代田区九段北1-14-21

創建:天慶3年(940年)

御祭神:天津彦火邇々杵命(あまつひこほのににぎのみこと) (相殿)平将門公 菅原道真

将門との関連:将門を祀るために建てられた神社で、現在も相殿に祭神として祀っている。

ビルの1階に参道が作られていて、奥に本堂があります。変わった構造ですが、これはこのビルが築土神社によって築土神社の土地に建てられたビルだからです。都心には境内にビルを建てて、低層階が寺院になって、上層階がテナントビルになっているという建物は結構あります。寺院が土地を利用して不動産収入を得て運営資金を調達する手段ですが、法律上は問題ないし、檀家への負担を軽減することができますが、私自身は寺院が副業で金儲けをするのは微妙だと感じています。

さて、築土神社では、京都七条河原で獄門になった将門の首を密かに東国へ持ち帰り、現在将門塚のある大手町付近に観音堂を建てて「津久戸明神」としてお祀りしたと伝えられています。このとき将門の首を運んだ櫃が、築土神社に長らく保管されていたそうです。江戸城が完成したり、江戸が都になったり、江戸城の拡張があったりと、地域の変遷によって何度か移転します。当時は江戸幕府の加護を受けて、広大な境内地を持ち、山王日枝神社神田明神と共に江戸三社と呼ばれたそうです。

築土神社も江戸時代は神仏習合の「築土明神」でしたが、明治維新によって築土神社と改名しました。神田明神と同じ理由ですが、朝敵であった将門を祀ることは許されず、主祭神も「天津彦火邇々杵命」に変更しました。いわゆる、天孫降臨のニニギです。その後も、戦災や復興のために移転を繰り返し、昭和29年(1954年)に現在地に鎮座しました。将門の首を持ち運ぶ時に使った首桶が築土神社にずっと保管されていて、中身を見ると目が潰れると恐れられ、秘仏のように扱われていたそうです。江戸時代の様々な書物に、その存在が記され、大正時代には写真も撮られているのですが、昭和20年の戦災で焼失してしまい、現在は写真のみが残っています。

境内には摂社というか、兼務社という扱いだそうですが、世継稲荷神社があります。世継稲荷社の横に天水桶があって、その桶に将門の紋である「繋ぎ馬」が掘られています。神田明神の随神門にも描かれていたものです。築土神社ではこの繋ぎ馬を登録商標として登記しているそうなのですが、私は法律に疎いのでよくわかりませんが、将門を祀る神社は全国にたくさんあるのに、どのような権利がどのように守られるのか、不思議に思います。

築土八幡神社

こちらは築土神社から電車のひと駅分くらい離れた場所で、ここに鎮座しているのが筑土八幡神社です。筑土神社は何度も移転をしましたが、この筑土八幡神社の左側、現在白い通路と白いビルがある場所にあったそうです。そして、将門の魔方陣の北斗七星を描く際には、現在の築土神社の場所ではなく、この筑土八幡神社の横の場所で描くのだそうです。

 

将門の首

藤原秀郷らによって討ち取られた将門は獄門の刑に処され、将門の首は京に運ばれ七条河原で晒されます。獄門の刑とは、打首にした後、その首を獄門台に乗せて見せしめのために衆目に晒すとう死刑の方法です。この処刑方法は明治時代まで続けられたそうですが、将門は獄門が歴史上確認された最も古い実例だそうです。将門の首が晒された場所には、当時「市聖」と崇められていた空也上人がお堂を建てて供養をしたと伝えられています。そのお堂は形を変えて「京都神田明神」として、四条烏丸あたりに現在でも存在しています。

ここからは、都市伝説的になります。晒された将門の首は腐らず、目を見開いて歯ぎしりをしているようだったそうです。「躰を付けて、ひと戦せん。俺の胴はどこだ」という将門の声が夜毎響いたと伝えられています。そして、この首は白光を放ち、胴体を求めて東の方へ飛んでいき、力尽きて地上に落ちたというお話です。この落ちた場所が「将門の魔法陣巡礼3」で訪れた将門塚です。将門の胴体がどこにあったかわかりませんが、おそらくは討ち取られた下総国の石井営所(現在の茨城県坂東市)あたりに葬られていたとすると、京都から茨城県坂東市を目指して、東京大手町で力尽きるとは、あと少しなのに何とも勿体のない話です。

 

将門の怨念

日本三大怨霊というものがあり、菅原道真平将門崇徳天皇が挙げられています。政権の敵とされて流罪や非業の死を遂げた後、怨霊として人々に恐れられ、その後に神として祀られます。将門の怨念のエピソードとして語られているものは、なぜか近代(大正・昭和)のお話がメインです。関東大震災後、全焼した大蔵省の庁舎を再建する時、敷地内にあった将門の首塚を壊して仮説庁舎を建てたところ、大蔵大臣はじめ関係者14名が次々と亡くなり、仮庁舎が取り壊される事となったというお話です。真偽の程はさておき、没後1000年経っても、将門のせいにされてしまうところがすごいです。

次はさらに時代が進み、昭和になってからのお話。戦後、GHQが駐車場建設のために将門の首塚を取り壊そうとしたら、重機が横転して運転手が亡くなったというお話。この他にも様々な将門の怨念と言われている出来事があります。

 

将門の魔方陣

怨霊と恐れられ、神社に祀って鎮められた将門の霊ですが、江戸時代には怨霊によるお話がありません。これは、徳川家が将門の霊を祀る神社を庇護し、将門の霊に敬意を示したからだと言われています。それどころか、徳川家康は将門の強力な霊力を逆に利用して、その力で江戸を守ろうと考えたと言われていて、それが今回巡礼している「将門の魔方陣」です。将門を祀る7つの神社や塚を北斗七星の形に配して、江戸を守る結界としていたという都市伝説でよく語られるお話です。

さて、江戸幕府が滅んで明治政府が国政を担う世の中になり、明治政府はこの将門の魔法陣を解くために、東京の街に鉄の結界を張って、将門の魔方陣を断ち切ったと言われています。鉄に霊力を封じる力があるとされ、その鉄で北斗七星を分断しました。それが山手線です。山手線が実際に環状運転を始めたのは大正14年(1925年)からで、それまでは「C」や「の」の字運転だったそうです。つまりそれまでは結界がまだ完成していなかった。そのために大正12年(1923年)に起こった関東大震災は、将門の怨念によるものという都市伝説もあります。信じるか信じないかは、あなた次第です。

 

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