寺社探訪

寺社探訪とコラム

「荒川 百所巡礼 16」

目次

聞き取り地蔵と物言い地蔵

荒川 百所巡礼 第126番 日蓮宗 日詔寺

荒川の土手沿い、数件の家が集まっている中に日詔寺という寺院があります。境内というのは特に無く、一軒家のような寺院です。墓地もありませんし、そもそもは日詔教会という名前だったようですから、修行道場というか一般の寺院とは違う意義の場所だったのかもしれません。

「ぴんころ観音」とのこと。多くの方が患うことなく元気で長生きして、ころっと死にたいという願いを持っていますので、ぴんころ観音やぴんころ地蔵が各地に奉納されています。価値観が多様化する社会で、ぴんころを願わない生き方もアリと思うこの頃。ただ長く患うのは、元気なうちには想像もできない苦しみを伴うと思います。ファンタジー映画では苦痛のように扱われますが、私は500年くらい生きてみたいと思います。

本堂の奥の方にかわいいお地蔵さまがいらっしゃいますが、こちらは「聞き取り地蔵」というそうです。説明書きによりますと、まず左側にある椅子に座ります。愚痴や悩みをゆっくりと話すと、その嫌な話を「聞き」「取って」くれるのだそうです。そして笑顔になって帰ってくださいというお地蔵様です。

 

荒川 百所巡礼 第127番 塞神

日詔寺のすぐ近く、土手に上がる階段の脇に塞神の石碑が建っています。塞神(さいのかみ)は日本の民間信仰の神様です。昔の人は村の端っこに神様を祀って、疫病や災害をもたらす悪い神や悪霊が集落に入ってくるのを防ごうとしたのですね。

土手に上がったところで、荒川は見えません。この草原は白土三平の「カムイ伝」のロケーションのようです。こんなに田舎っぽい風景ですが、埼玉県は全国都道府県人口ランキング第5位なのです。東京・神奈川・大阪・愛知・埼玉という順です。「翔んで埼玉」という愛あるディスり映画がありましたが、埼玉は首都圏を担うかなりのポテンシャルを持つ県なのです。

 

荒川 百所巡礼 第128番 荊原大日堂

土手を背景に、大日堂がありました。お堂だけポツンとあるのですが、一応境内もあって、石塔群か並んでいました。こちらは地主家が所有する大日如来像を安置するために、地主家によって建てられた堂宇で、江戸時代には存在していたようです。

その後は村民持の堂宇として、改修しながら現在に至るという歴史を辿っています。何宗でもなく、寺院でもなく、大日如来に対する信仰のみというのは、より純粋な印象を受けます。境内は荒れることなく、きちんと人の手で整備されています。素晴らしいですね。

 

荒川 百所巡礼 第129番 三島神社

大日堂のすぐ横辺りに、同じく土手に背を向ける感じで三島神社が建っていました。入口の鳥居横には大きな庚申塔の石碑が建っています。もう少し荒川から離れた内陸部にいくと、鴻巣市明用というところに「三島神社古墳」があります。前方後円墳の上に三島神社があるのですが、この荒川沿いの荊原にある三島神社も、何かしら関係があるのではないかと思われます。

おそらく大日堂と同じく、地元の名主が信仰のために三島神社を勧請したと思われます。これだけ川に近いと、ずっとこの場所に存在したのではなく、川の氾濫や河川敷地域の開拓によって移動してきた歴史がありそうです。写真見て思いましたが、このお社、電気通ってますね。いったい何のために・・・。

 

荒川 百所巡礼 第130番 権八地蔵

三島神社からすぐのところに、今度は仏堂がありました。真新しい二宮金次郎の石像が建っています。二宮金次郎像の足元に「報徳訓」が書かれています。先祖が頑張って、父母がその徳を受けて、父母が頑張って私がその徳を受けて、私が頑張ったら私の子がその徳を受けるというようなことが書かれていました。なので来年のために今年頑張れというようなことです。

このお堂は権八地蔵のお堂だそうです。説明書きによると、権八は平井という姓の鳥取藩士であったが、同僚を殺害して脱藩し、江戸へ逃れました。その途中で久下の長土手で絹商人を襲って大金を奪い取りました。周囲にお地蔵様を祀った祠があり、良心が咎めたので、お賽銭をあげて「私の悪行を見ていたようですが、どうか見逃してください。誰にも言わないでください」と手を合わせてお願いしました。すると、お地蔵様が「我は言わぬが、汝言うな」と口をきいたと伝えられています。このお話でこのお地蔵様は「権八地蔵」とか「物言い地蔵」と呼ばれているそうです。権八自身は結局鈴ヶ森の刑場で磔の刑に処されたそうです。

中山道と久下宿

言い伝えって、残酷ですよね。救いのないお話でした。この権八地蔵から土手の道は旧中山道になっているのです。へぇ、こんな道が五街道のひとつ中山道なのかと感慨にふけり、日本橋から京都に行くのに、なぜここまで遠回りなのだと驚きます。左の矢印は鴻巣宿へ2里17町、右の矢印は熊谷宿へ1里34町だそうです。もうこのあたりから熊谷市に入ります。

海まで71kmのキロ杭がありました。多摩川巡礼企画ですと、71km地点は御岳渓谷のあたりです。やはり荒川は長いですね。まだカムイ伝的な景色が続いていますが、この道は旧中山道です。

「決壊の跡」の石碑です。これはいつ決壊したかというと、昭和22年(1947年)です。カスリーン台風という名前が付いています。上陸した訳ではないそうなのだが、関東地方を水浸しにした台風として知られています。利根川と荒川が決壊し、東京へ迫る水を江戸川に逃がすべく米軍も動員して奮闘したが止められず、足立区、葛飾区、江戸川区がほぼ全域で浸水したという災害です。死者1077名という大変な被害ですが、戦後間もなくという時代ですから、太刀打ちできなかったのも無理はない気がします。令和に入っても、大きな台風の被害はコントロールできないもので、日野橋が歪み、二子玉川が浸水した令和元年の東日本台風は死者100名以上を出しています。

 

荒川 百所巡礼 第131番 馬頭観音

カムイ伝的草むらに馬頭観音の石碑があります。近くへはいけないので、土手の上から遥拝です。天保12年(1841年)に建立された石碑です。

 

荒川 百所巡礼 第132番 久下稲荷神社

鳥居があって立派な神社なのですが、訪れたタイミングが良くなかったのか、草ボーボーで近くに行くことができません。鳥居に「正一位 稲荷」と掲げられていますので、稲荷神社ですね。この神社はマンションの裏にあるのですが、これが数100mはあるかなり細長いマンションなのです。正式にはマンションと土手の際(きわ)を歩いていくのですが、さすがに他人の家の裏庭に侵入するようで気が引けます。

一応これが参道となっているそうで、ここをずーっとまっすぐフェンス沿いに進んでいくそうです。マンションのベランダが並ぶこんなところを歩いていくのは、目的が違うとはいえ、行動的には泥棒と紙一重に感じます。

さて、土手の上の道に戻りました。このあたりから俳句が書かれた立て看板が見えるようになりました。「長土手に 馬子唄のどか 春の風」馬子というのは馬をひいて運搬する職業の人々です。馬頭観音の石碑が建つ傍らを、馬子が歌いながら歩く姿が思い浮かびますね。「下に下には 大名行列 中山道」「下に下に」というのは、大名行列の先頭で、庶民に土下座するように呼び掛ける掛け声です。江戸六地蔵+街道企画でも書きましたが、東海道は大きな河川の河口部を渡るので天候に左右されやすく、長く足止めを食うこともあるそうです。大人数での移動ですので、結局は中山道の方が予定通りに通過できて良いのだそうです。

72kmまで来ました。あまり景色は変わりませんね。右も左も長閑です。ちなみに今歩いているこの土手上の道は旧中山道ではなくて、右側の斜面の中腹に、さらに細い道が見えると思います。そこが旧中山道で、なんと車も通行可能なのです。現に赤い車が走っていますが、これで一方通行ではありません。どうなっているのでしょうね。

「修堤記録輪型の碑」という石碑です。この修堤は最近のことではなく、石碑が明治45年(1912年)の建立なので100年以上前のお話です。輪型はこの付近に河岸があって、大八車が轍を深く掘っていたということだそうです。石碑の左側の水準点は、国土地理院が設置している、精度の高い標高の基準となる点のことです。

土手の道は左へ進んでいますが、菜の花に導かれて土手を降り、旧中山道を進みましょう。この先は中山道で江戸から数えて8番目の宿場町で、板橋宿に次ぐ人口規模だったという熊谷宿に入ります。

 

荒川 百所巡礼 第133番 久下神社

中山道沿いに久下神社がありました。鎌倉時代初期の武士だった久下直光が、崇拝していた三島大神を祀るために、領地内に2つの三島社を建立したことが創建の由緒となっています。旧中山道沿いに内三島、荒川沿いに外三島を建てたとのことですから、この神社は内三島の系統です。

周囲は集落というより、ちゃんとした町なので、境内もしっかり整備されています。三島神社ですから、祀られているは大山祇神です。江戸時代に新川河岸が開かれると、明治時代になって新川村が独立します。外三島は新川村、内三島は久下村の村社になりました。明治22年に新川村はまた久下村と合併します。明治43年に村内の無格社10社を合祀し、大正2年に14社を合祀します。その際に外三島も合祀しています。

こちらは道路元標です。大正時代には各市町村に1つ道路元標を設置しなくてはならず、ここが久下村の道路元標だったのですね。以前「江戸六地蔵千葉街道」の企画で市川市を訪問した時に、市川町の道路元標をレポートしました。

中山道を進みますと、民家の入口に道標のような石灯籠がありました。「ここは久下上宿 右吹上宿 左熊谷宿」と書かれています。チェーンで固定されていて、盗もうとする人がいるということですかね。

同じ民家の門の左側に、「此の街道 旧中山道碑」がありました。これは新しい時代のものでしょうね。屋号が書かれていましたから、古くからこの地に住む一族の方が造ったのでしょう。特にこれというものが見当たらなくても、旧街道や宿場町というものは、歩いているとその雰囲気を感じます。不思議ですね。この後中山道は荒川土手にタッチして、熊谷駅の方に向かい、駅を超えて深谷、本庄へと伸びています。味のある旧中山道とももうすぐお別れです。

 

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