寺社探訪

寺社探訪とコラム

江戸・東京にゆかりのある僧3選

僧は人々に多くの影響を与えます。一般衆生だけでなく、政財界や学術・文化、スポーツや戦争など各方面にその存在価値を発揮してきました。そんな僧の超人的な能力を、千年の昔から人々は崇敬してきました。例えば弘法大師空海には、杖を付いたら泉が湧いたなどの数多くの伝説があります。慈恵大師良源は角大師や豆大師など、およそ人の姿からかけ離れた容姿で描かれています。ということで、今回な東京(江戸)にゆかりのある僧3選を独断と偏見で選んでみました。

 

③ 安永雄彦

現代の僧ですが、中田敦彦さんの「YouTube大学」でも特集された、築地本願寺を蘇らせた方です。現在は京都の西本願寺で、浄土真宗本願寺派の事務方のトップである、代表役員執行長という立場にいらっしゃいます。

安永さんは一般企業でやるようなイノベーションを寺院で行っただけで、特別なことをした訳ではないと言っていますが、これが実は凄いことなのです。葬儀業界にいる私の目から見ると、寺院にも僧侶にも格を付けて権威でガチガチの仏教界ですから、一般人が意見するなんてできません。脱サラ僧侶の安永さんが企業論理を受け入れさせた事実は、認めさせた安永さんも凄いし、受け入れた浄土真宗本願寺派も凄いのです。数世代に渡って宗派の伝統を受け継いできた僧侶たちが、50歳で得度した元ビジネスマンの意見を聞いて、宗派の在り方を改革したというのがミラクルなのです。

f:id:salicat:20210528213702j:plain

 私は新興宗教ニ世問題や、家系で親から子へ信仰を継承させることに批判的な立場なのですが、だからといって良い解決策が見つかりません。実は安永さんも別の角度から、信仰は個の時代だという意見です。ニ世問題に限らず、個人で信仰を持つことのできる環境を作りたいと考えています。社会構造の変化で、生まれた土地で生涯を過ごすことも、親子が同じ家に暮らすことも珍しくなった今、個人の信仰心が求める拠り所を失わないために、手を伸ばせば触れられるような、それでいて遠く離れた親子を結ぶような、どこにでも開かれた寺院を目指しています。金融の世界で生きてきた安永さんが、信仰の素晴らしさを人々に失ってほしくないと願っていて、その活動を宗派をあげて支えている浄土真宗本願寺派のこれからに大注目です。

 

② 祐天

祐天寺は東京の寺院名であり地名であり駅名でもあります。祐天寺は祐天ではなく、弟子の祐海が祐天の遺命を受けて建立した寺院です。江戸中期に爆発的な人気を誇った祐天上人とは、どんな僧だったのでしょうか。

祐天は寛永14年(1637年)に現在の福島県いわき市に生まれました。仏門の始まりは徳川家菩提寺増上寺に入門したことで、そこから増上寺法主にまでなった方なので、典型的な江戸を生きた僧侶です。しかし、ずっと増上寺で順調に出世していった訳ではなく、出来が悪くていきなり破門になっています。破門になった祐天は、成田山新勝寺での修行によって、不動明王から喉に剣を刺し込まれるという白昼夢を見て智慧を授かります。その後、増上寺に復帰して精進しつつ弟子の育成に尽力し、50歳で引退して牛島(墨田区)に草案を結び、そこで「南無阿弥陀仏」の名号を書写して人々に授けていました。いつしか、祐天上人の名号は大反響となり、諸大名や将軍家からも帰依を受けるようになります。1度引退した祐天ですが、徳川5代綱吉や綱吉の生母桂昌院、6代家宣の命を受け、下総国大厳寺、弘経寺、江戸伝通院の住持を務め、ついに増上寺法主となり大僧正に任ぜられます。

祐天には、南無阿弥陀仏の名号の他に、悪霊の除霊伝説が多く語られていて、様々な書物に残されています。真言宗天台宗密教僧にはそのような逸話も多いのですが、浄土宗の念仏僧が除霊で人々を救済した伝説はかなり珍しいです。

現在の祐天寺は、祐天の意思によって長く念仏による衆生救済のための寺院を建立すべく、弟子の祐海が創建しました。当ブログでも訪れていますので、よろしければ探訪レポートもご覧ください。

 

① 天海

時代劇では悪役として描かれることが多いですが、やはり江戸の僧といえば天海ではないでしょうか。徳川家康の側近として仕え、都としての江戸の町造りを手掛け、3代家光まで幕府の参謀のような役目を果たした僧です。

天海の出生や半生には様々な説があります。足利将軍家の末子だったとか、実は生きていた明智光秀だったとか諸説ありますが、ここでは家康に仕えてからの天海を見ていきます。天海が比叡山から関東に来たのは、やはり家康に仕えるためとされています。現在の埼玉県川越市天台宗の別格本山である喜多院がありますが、当時は無量寿寺北院という名称で、住職となった天海は徳川家康の参謀として、江戸幕府の基盤をつくるために朝廷との折衝や町造りに関わっていきます。

天海が関わった江戸の寺社では、やはり寛永寺が有名です。現在も寛永寺では開山堂に天海が祀られています。比叡山が京の都の鬼門を護ったように、江戸の鬼門を護るべく東の比叡山として東叡山寛永寺と名付けます。琵琶湖に見立てた不忍池や弁天堂を建立しました。裏鬼門に比叡山日吉大社から勧請した山王日枝神社を配したのも天海です。現在も溜池山王にある日枝神社です。裏鬼門には増上寺も配して、二代秀忠の墓所としました。他にも平将門を祀る神田明神を江戸の鬼門に移して勅願所としたり、当ブログでも訪れた「将門の魔方陣」も、天海が配したものとされています。

f:id:salicat:20210529015630j:plain

100歳を超える長寿で、徳川250年の基盤を造った功績は、今も東京の各所に遺されています。天海自身の墓所は、家康と同じく日光にあります。比叡山と川越の喜多院にも廟所があります。将軍の参謀という立場から、権力の座にしがみつく色と欲の権化のように物語に登場することが多い天海ですが、家康、秀忠、家光にとっては身内以上に頼れる存在だったと思われます。地位だけでなく人間性も備わっていないと、このような存在にはなれないと思います。同じように武家への影響力を持った利休が、切腹という最期を迎えたことを思うと、天海は実は穏やかで笑顔の人だったんじゃないかと思うこともあります。様々な逸話と伝説があり、出生や半生は謎に包まれています。研究者も多いので、深堀りしてみると面白いと思います。

 

ーーーーーーーーーーーーーーー

ランキング参加中(よろしくお願いします)

にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村

神社・仏閣ランキング
神社・仏閣ランキング