寺社探訪

寺社探訪とコラム

「江戸六地蔵+千葉街道」

江戸六地蔵・永代寺+千葉街道

永代寺

江戸六地蔵巡礼もいよいよ6番目です。6番目は江東区の永代寺なのですが、現在( ↓ )のような跡地の石碑が建っている状態です。

富岡八幡宮別当永代寺跡」と書かれています。ここは深川公園なのですが、そもそも深川公園は永代寺の境内だったのです。ここ江東区富岡は、江戸時代は海沿いの砂地でした。そこへ京都から長盛上人が夢のお告げを受けてやってきて、庵を建てて持参した八幡大菩薩を安置します。これが永代寺の創建とされていて、富岡八幡宮の創建はその3年後ということになっています。実際に永代寺としての寺院が出来上がるのは更に後の話で、その間に約6万坪超の土地を干拓して永代島(現在の江東区富岡)が生まれました。

時系列がややこしいですが、神仏習合の時代ですから、おそらく長盛上人にとっては、八幡神を祀る富岡八幡宮とその別当寺(神社を管理する寺院)の永代寺はセット感覚で、同時に創建という意識だったのではないかと思います。

こちらは現在の永代寺です。跡地があるのに現存するとはこれいかに?

永代橋が架かって江戸市中とのアクセスが良くなると、富岡八幡宮へ詣でる人々が爆発的に増加します。また、元禄16年(1703年)に市川團十郎の希望で始まった成田不動尊の出開帳が大人気となり、永代寺は大いに賑わいます。永代寺の門前には永代寺門前町門前仲町、門前山本町、門前東仲町と、4つの門前町が栄えます。お寺が無くなった現在も、門前仲町の名称が残っています。門前町には参拝客目当ての茶屋が立ち並び、岡場所(非公認の遊郭)として発展し、今に受け継がれる深川芸者も誕生しました。

こちらは深川不動堂ですが、深川不動堂の創建は1703年となっています。これは正確には成田不動尊不動明王が永代寺に出開帳された年ですね。ちなみにこの深川不動堂のある場所も、永代寺の境内でした。大いに発展した永代寺は、明治時代の廃仏毀釈で廃寺にされてしまいます。政府と市民が一体となって暴徒と化して今まで崇めていた寺院を襲い、跡形もなく潰してしまうというのは、どんな状況なのだろうと想像もできません。永代寺が潰された後になってからも、人々が不動尊信仰を求めたので、深川不動堂の建立が明治11年に認可され、明治14年成田山新勝寺の別院としてこの地に建てられることになったのです。しかし「建てるなら潰すなよ」と言いたくなりますね。朝敵将門を討った成田山は明治政府にとっても特別なんですかねぇ。

永代寺の地蔵菩薩坐像

永代寺にあった江戸六地蔵のひとつは、廃仏毀釈によって現存していません。しかし、永代寺という名前の寺院は存在しています。明治29年(1896年)に永代寺の塔頭だった吉祥院が、永代寺の名前を引き継いだのです。現在の永代寺は、歓喜天を本尊とする珍しい寺院ですが、境内にはいくつものお地蔵様がいらっしゃいます。

千葉街道・両国界隈

永代寺の江戸六地蔵が守っていたのは江戸の東側、千葉街道とのことです。当時の千葉街道がどこを通っているのか良く理解せずに歩き始めました。スタートは両国国技館あたりです。これが最後の街道散歩となります。かなりの長距離を歩きましたので、いくつかの章に分割しています。何度かに分けて読んでください。それでは参りましょう。よろしくお願いいたします。

江戸庶民の暮らし振りが北斎や広重など浮世絵師の題材になっていましたが、両国の街には様々な場所に彼らの描いた町と人が掲示されています。こちらは国技館近くにあるベンチです。北斎の描いた両国橋の絵ですが、人で溢れていますね。

総武線の鉄橋が隅田川を渡ったところに百本杭跡の案内板が建っています。史跡にはこんな風に案内板が建っていることが多いですが、区や市の管轄なのでそれぞれの個性が見受けられます。墨田区はこのように屋根付きのお触書っぽいタイプになっています。百本杭というのは、川の流れで岸が削られるのを避けるために杭を立てて川岸の流れを緩めるものです。両国の隅田川東岸あたりの湾曲した部分に多く立てられていたそうです。

こちらは、国技館の裏の通りにある本所御蔵跡の案内板です。JR両国駅から都立横綱公園までの範囲に、掘割が巡るように造られていました。享保19年(1734年)4万4千坪の土地に12棟88戸の倉庫が建てられ、安政5年(1858年)までに37棟246戸にまで増築されました。当時は凶作などで物価が上がり庶民の生活が困窮を極めると、「打ちこわし」と呼ばれる暴動が起こりました。庶民が米屋や質屋、問屋などの富裕層を襲撃し、家屋を破壊して略奪を行いました。両国に御米蔵が作られたのも、この「打ちこわし」がきっかけだったそうです。

隅田川に架かる両国橋です。江戸時代は大川と呼ばれていた隅田川に2番目に架けられた橋です。当初幕府は江戸の防備のために橋をかけていなかったのですが、明暦の大火で逃げ場が無く多くの人命が失われたことを教訓に、方針転換して架けられたのが両国橋です。京葉道路が通っていますが、こちらは江戸時代当初の場所ではなくて、もう少し河口側にあったそうです。両国橋の右側には、神田川が合流しているのが見えます。

京葉道路を渡り、河口側に移動しました。墨田区の案内板が3つ並んでいます。「江戸の町」として、駒留橋跡と藤代町跡、「両国物語」として片葉の葦の話が書かれていました。かつてはこのあたりに両国橋があったために、付近は広場や石碑や史跡の説明板が多く、歴史ある地域という雰囲気がします。

こちらは石尊垢離場跡の案内板です。石尊というのは神奈川県伊勢原市の大山のことです。江戸時代に大流行した「大山詣」に向かう前に、ここで水垢離、つまり隅田川の水で身を清めてから出発したということです。こんな遠くから清めて行っていたのは驚きです。江戸時代に流行した「〇〇詣」は講を作ってお金を積み立てて、代表者だけがお詣りに出かけました。両国橋の際で行われた水垢離は江戸で見送る講のメンバーや家族も参加できるイベントとして盛り上がったのかも知れませんね。

こちらは赤穂浪士の休息地の案内板です。元禄15年(1702年)12月14日、本所二ツ目の吉良邸に討ち入って主君浅野内匠頭の敵を討った、いわゆる忠臣蔵のお話です。討ち入りの後、この両国橋近くの広小路で休憩したのだそうです。両国橋は江戸城へ向かう大名たちが通る道なので、無駄な衝突を避けるために、赤穂藩士たちは休憩後は永代橋を通って泉岳寺に向かったのだそうです。

千葉街道・本所界隈

回向院の裏側を通って、本所の町中へ進んでいきます。本所は現在の墨田区の南半分ほどの範囲で、江戸の下町として、特に明暦の大火以降は人々が多く住むようになりました。江戸後期になると商業地としても発展した町となり、文化人も多く住みました。そんな本所に住んでいた吉良上野介の吉良邸跡地の一部が、史跡として一般公開されています。敷地に入ると正面に吉良上野介の像が見えますね。

中には赤穂浪士の個々の紹介や吉良邸の見取り図など、様々な資料が展示されているのですが、稲荷神社もありました。この松坂稲荷神社は討ち入りに関係ないのですが、便宜上この敷地に祀られています。関係なくてもここにあると、皆さんここで亡くなった吉良家の家臣のために祈ってしまいますよね。

こちらが「みしるし洗い井戸」で、この井戸を中心に周辺の町会有志の方々が土地を購入して東京市に寄贈したのだそうです。現在では吉良邸跡地は墨田区が管理する東京都の史跡として指定されています。12月14日には、赤穂浪士と吉良家家臣の供養のための「義士祭」が行われています。

吉良邸を過ぎて東へ進むと、両国公園に「勝海舟・幕末絵巻」という一角が現れました。坂本龍馬に「日ノ本一の人物」と言われた勝海舟の生誕地になるそうです。石碑に並んで日本刀が立て掛けられた椅子があって、そこに座って記念撮影できるようになっています。

本所の町をジグザグに歩きます。京葉道路を渡って、またJRの線路の方に向かいました。この神社は榛(はんのき)稲荷神社と言いまして、武士が馬術を訓練する馬場がこのあたりにありました。南北22m東西185mほどの広さがあり、その馬場を囲む土手に大きな榛の木があったので、榛(はんのき)馬場と呼ばれ、その馬場の一角に稲荷神社もあって、その榛稲荷神社の近くに葛飾北斎の居住地があったそうです。北斎は90回以上も居住地を変えているのですが、ここに住んだのは晩年で80歳を超えていたそうです。

こちらは二の橋跡の案内板です。首都高速小松川線の下、竪川に架かる橋です。竪川が開削されたのは万治2年(1659年)で、隅田川に近い方から二番目の橋です。竪川を水上の交通網として利用したり、橋を渡ったりする様子を描いた浮世絵と共に説明がありました。

こちらは二の橋から一の橋方面を撮影した風景です。物資を運ぶのに使われた川の上を、現在でも物流の主要道路が走っているという、数百年の時代を超えたコラボになっています。

こちらは時の鐘を再現したもののようです。甲州街道編の府中宿を訪問した際に、大國魂神社内に時を知らせる太鼓塔がありました。こちらは鐘なのですが、この時の鐘があるので、ここに架かっていた橋は「艟木橋」と名付けられたのだそうです。このあたりには勝海舟の他に、長谷川平蔵遠山金四郎堀部安兵衛など、江戸の有名人たちの縁の地がたくさんあります。

千葉街道がどの道なのかよく分からぬまま、馬車通りと名付けられた道を進んでいますと、都立墨東病院の近くに旅所橋と名の付く橋がありました。こちらは万治2年(1659年)に横十間川が開削されたときに架けられた橋です。竪川と同時に開削したのですね。御旅所というのは、神社の神輿の行き先として知られますが、この橋の由来もその通りで、この近くに亀戸天神社の御旅所があったのだそうです。

千葉街道 江東区

墨田区から江東区に入ったところで、ついに旧千葉街道の立看板を見つけました。江東区は旧千葉街道の看板を出すタイプなのですね。竪川に沿って東へ伸びています。ここが今は無き永代寺の江戸六地蔵が守っていた通りということになります。

通りの雰囲気はこんな感じです。商業地寄りの住宅地というか、ビルやマンションが並ぶエリアです。最寄りは亀戸駅で、亀戸駅の商業圏の範囲内になっているので、亀戸駅を利用する人々の居住エリアになっているのですね。

こちらは大東京信用組合亀戸支店の前にある寛永通宝のモニュメントです。このあたりには江戸時代に銭座があって、寛永通宝を鋳造していたそうです。そこに今も金融機関があるのは単なる偶然でしょうか。竪川五之橋には「三代豊国五渡庭園」という超作り込んだ親水公園があります。

大通りを挟んだ反対側には旧千葉街道の石碑が建っていました。ベンチがあって、休憩スペースのようになっています。

更に旧千葉街道を東に進んで参りますと、竪川専用橋跡地の広場が現れました。こちらには、大正時代から都電が竪川を渡るための専用橋が架かっていたのですが、都電が廃止されて橋も役目を終えて老朽化と共に撤去され、このようにモニュメントとしてレールや車輪が展示された広場となっています。

こちらは竪川旧護岸です。現在は護岸壁として機能していませんが、モニュメント的に保存されています。人と物が行き交う川の道として、自然ではなく人間の力で造られた竪川と周辺の川ですが、そもそも低地なのに地下水を汲み上げたので、地盤沈下が起こりました。そこで護岸壁を高くして対策していた名残りです。現在はこの部分以外は取り壊されています。

川というか用水路のようです。こんな人工的な感じでも、水辺を歩くと気持ちが良いものです。亀戸の商業圏から離れて、大型のマンションが立ち並ぶエリアになっています。

公衆トイレの横に旧千葉街道の標識が建っています。どんどん進みましょう。

京城東病院の角に、元佐倉道跡の石碑が建っています。「竪川六ツ目」と書かれているのは、六之橋が架かっていたのだと思われます。大きな建物しか無いような場所を歩いていると、自分の存在が小さく思えて少し不安になります。自分のことばかり意識していると気づきませんが、世の中に私という存在はほぼ無いに等しくて、私に関係なく世の中は動いています。

ここは逆井の渡し跡地です。石碑があって、ちょっとした広場になっています。元佐倉道が中川を渡るための渡しですが、前述の通り江戸幕府は江戸の防衛のために、橋を極力架けないようにしていたそうです。明治12年(1879年)に逆井橋が架かり、渡し船は役割を終えました。

逆井橋を渡ります。ここは旧中川で、新しい中川は荒川(荒川放水路)沿いを流れています。橋を渡れば江東区から江戸川区になります。

千葉街道 江戸川区

逆井橋を渡ってすぐ左に小松川神社があります。社伝によると、大正時代に荒川放水路が開削されたことによって、小松川地域の神社の氏子エリアが分断されてしまいました。そこで香取神社天祖神社の御祭神を、小松川の西光寺境内にあった稲荷社に分祀しました。そして昭和11年に現在地に社殿を建立し、12年に水神社を合祀したとあります。広々した境内と、親子の子狛犬が台座からはみ出しているのか特徴的でした。

ここで荒川と中川を渡ります。河口に近いので、川幅が半端なく広いです。この距離を歩いて渡るのも、なかなか経験しないことです。小松川大橋と新小松川大橋が平行に架かっていて、それぞれ京葉道路の上下線になっています。

橋を渡った土手沿いに、五分一通りという道があって、おそらくこちらが旧千葉街道(元佐倉道)だと思われます。荒川放水路は大正時代に造られた川なので、それまでにあった道が水没して分断されています。その水没したエリアに元佐倉道と行徳道の交差点で四股と呼ばれた交通の要所があったそうです。こちら( ↑ )は、四股を横切る小川に架けられた橋の橋桁の一部だそうです。

なんとなく、これまでに見てきた旧街道の雰囲気を醸し出していますね。全くの余談ですが、20年程前に仕事で小松川警察署に来たのですが、その時に「天ふじ 松島支店」でお昼をいただきました。( ↑ )のオレンジのテントがあるお店です。20年前に1度だけ訪れた場所などすっかり忘れていたので、店の前に差し掛かって「あ、ここ来たことある!」と驚きました。

開削される川があれば埋められる川もあり、ここには昭和57年まで川が流れていて、その親柱だけ残っています。この通りは元佐倉道ですが、現在は五分一通りと呼ばれていて、この橋は五分一橋の跡地です。ちなみに五分一というのは、税率のことで、このように徴収率が地名として使われているのは、全国的に珍しくないそうです。この地では運河の通行料の徴収率が、荷量の五分の一だったのではないかと言われています。

八蔵橋跡も親柱が残されていまさた。この付近には元佐倉道の説明板がありました。あやふやに歩いてきた道がここでようやくはっきりしました。旧千葉街道は、以前は元佐倉道と呼ばれていて、両国橋から竪川沿いに進み、四股を経て江戸川を渡る手前まで続いていて、そこから先は水戸街道の亀有新宿から分岐してきた佐倉道に合流します。この佐倉道は江戸川を渡って市川→本八幡と現在の千葉街道を通って、船橋成田山新勝寺へ向かう成田街道と、東金御殿へ向かう御成街道(東金街道)に分岐します。

先程の小松川神社に御祭神を分霊した香取神社です。建治3年(1277年)に創建されたとありますが、香取神社の総本社は千葉県香取市香取神宮です。経津主命(ふつぬしのみこと)を御祭神とする神社ですが、千葉県に多くあります。なぜかこのあたりには特に狭いエリアにいくつかの香取神社があります。

区立中央図書館の前あたりです。このあたりは区役所や市民センターなどの大型の公共施設が集まっていて、大規模な商業施設も建っています。住宅街から一気に繁華街になったような印象です。

ボーリング場やホームセンターや自動車ディーラーなど、大きな建物が続きます。区役所があるからなのですが、このあたりのように電車の駅からかなり離れたところに突如として商業地が現れる所ってありますよね。電車の駅があれば人の往来のためだと解りますが、謎な商店街や不意の繁華街には興味を惹かれます。そんな道端に庚申塔がありました。ブロック塀に囲まれて、お供物もされていて、大切にされています。

中川から分かれて旧江戸川に注ぐ新中川を渡る小岩大橋です。中川と江戸川は新やら旧やらややこしいです。新中川は荒川放水路と同じく、洪水対策に人の力で開削された川です。完成したのは昭和28年とのことです。

街道の様子ですが、繁華街から少し遠のいた感がありますね。小岩大橋の説明板に書かれていましたが、この通りは房総地域の大名たちが参勤交代に使った他に、庶民もよく利用した通りなのだそうです。そう考えると成田山は、江戸庶民の行楽的に良い距離なのでしょうね。

ここで蔵前橋通りと合流します。江戸感覚で言うと、元佐倉道から佐倉道に合流します。この付近の総武本線のガードの南あたりに小岩の一里塚があったそうですが、現在は何の跡形もないそうです。

こちらの住宅の隅に建っているのは「御番所町の慈恩寺道石造道標」という道標です。小岩と市川の間には関所があったので、この付近は御番所町と称していました。慈恩寺というのは、さいたま市岩槻区の慈恩寺です。当時の移動手段を考えると、こんな所の道標で示す意味も無い程に遠いです。ともあれこの道標は、市川から関所を通って来た人々に、市川方面、江戸本所方面、岩槻慈恩寺方面、という三方向を案内しています。

そのすぐそばに、御番所町の跡地の案内があります。御番所町は関所前界隈のことですが、江戸川区の史跡として登録されています。ここは東西南北の交通の要所であると同時に、渡しと関所がありますので、ここで足を止める人が多かったのでしょう。すると自然発生的に旅籠や料理屋が集まって、宿場のような機能を持つ町になっていたようです。

江戸川の河川敷に上がってみました。小岩市川の渡し跡、小岩市川関所跡の案内板が建っていました。この案内板によると、佐倉方面へは今回私が通ってきた元佐倉道よりも、千住から亀有新宿を通過する佐倉道の方がよく利用されていたそうです。江戸川にも江戸防衛のために橋は架けられませんでしたので、小岩市川の渡しを利用するしかありません。関所は小岩側にあったそうです。幕府が管理する関所なので、常時4名の番士が配属されていました。上流にあった金町松戸関所と共に、江戸の町を守っていました。

千葉街道 市川市

市川橋を通って、江戸川を渡ります。令和の世の中では、関所もなく手形も必要ありません。すると市川側にも関所跡があって、こちらの方がかなり立派です。説明板を読んでいると、「市川関所は小岩市川関所とも言うけどさ、幕府の役人が通行人を取り調べたのは小岩側だけどさ、両岸で協力して1つの関所でやってきたんだよ!」という気概を感じました。

市川市の中心部に向かっていて、通りはすっかり繁華街です。交通量も多いし、JR市川駅に近づくに連れ、人の往来も激しくなってきました。

こちらは、市川町道路元標です。この「江戸六地蔵+街道」の企画の最初に、日本橋の日本国道路元標を訪問しました。日本橋を起点に国道が走っているのですが、大正時代に各市町村に道路元標を置くことが定められました。役所のある場所や主要な交差点に置かれることが多かったそうですが、市川町はここに道路元標があったのですね。

こちらはJR市川駅の近くにある三本松の石碑です。街道に松を植えるのは、最初に訪れた品川宿でよく見ました。市川にも立派な三本松が街道沿いに植えられて、石垣が組まれて大きな祠も建っていました。交通量が増えるにつき、だんだんと枯れていき、三本が二本になり、ついには伐採されてしまいました。大きな木はその土地のシンボルになり、人々の心の拠り所となります。しかしながら、もっと多くの人が幸福になるためには、そこに松を残せなかったのだと思います。あはれなりけり。

 

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