寺社探訪

寺社探訪とコラム

「晩年の住職たち」

先日お通夜の司会の仕事で、葬家の菩提寺の副住職と打ち合わせをしました。「明日は住職も参りますから」と言われて少々驚いた。このお寺の住職様はかなりのご高齢で、前年に仕事でお会いしたときには、手術をされて体調がかなり悪かったようでした。それから約1年半になります。失礼ながら、もう引退されていると思っていましたが、素直に副住職様に伺うと、あの頃よりは元気になりましたとのこと。「しかし、もう95ですからねぇ」と笑ってましたが、95歳で現役の住職なのです。

この95歳の住職様は、喜怒哀楽が激しく、頑固で筋の通った人で「和尚さん」という言葉がピッタリな方です。耳が遠いからですけど、声が大きくて、法話では説法というより説教という感じです。大声で捲し立てるので、聞いている遺族親族が皆さん萎縮してドン引きしてしまうほどです。それでも私には、この住職様のファンになるような出来事がありました。もう15年か20年ほど前の話ですが、檀家さんのお嬢さんが若くして自殺されたお葬式でのこと、法話を始めた住職様が「本来なら、私が悩みを伺って、話を聞いて、止めなければならなかったのに、力及ばす申し訳ない」と遺族に頭を下げたのです。その当時から住職様は宗派の大僧正という、この上ない地位の方でしたが、偉い偉いと持ち上げられても、人に頭を下げられることにすごく感動しました。この方なら、95歳になっても100歳になっても僧侶であり続け、葬儀に出るだけでなく、僧としてできることを命尽きるまでするんだろうなと思います。

この住職様だけでなく、私が仕事を通じてお世話になっているお寺の住職様には、かなりご高齢な方が何人かいらっしゃいます。ほとんどの方は、寺の息子に生まれたから僧侶になったという人ですが、僧侶って職業名なのでしょうか?

僧侶については、コラム「三宝に帰依する」で書きましたが、僧侶というのは職業なのかというと、私はそうではないと思っています。僧侶に対して聖人や求道者を期待しても、日本の僧侶は自坊を維持し子に継がせるのが最大の目的で、そこにズレが生じている、という内容のコラムでした。それでもやはり、僧侶は他の職業とは違う、特別な存在だと私は思ってしまいます。

一番近いのは天皇という存在に思います。明治天皇大正天皇昭和天皇も、亡くなるまで天皇でした。平成天皇は国民の象徴としての重責に、高齢となった自分が耐えられなくなっているジレンマに悩み、お気持ちを表明して退位されました。おそらく周囲に相談はされたでしょうが、誰に指示されたり命令を受けたものではなく、平成天皇自ら退位を決断されたことだと思います。退位したからと言って、一般人になる訳でなく、公人として生涯を過ごします。天皇というのは職業かというとそうではなく、「象徴という存在」を示す言葉だと思います。僧侶も職業ではなく、「衆生を救う仏法を求める存在」を示す言葉だと私は思います。

僧になることは、出家とか得度とか言いますけど、俗世を離れて求道に専心するということです。そうして修行して僧侶になって、求道もそこそこに、お寺の維持のために働く訳ですけど、最初は副住職として親に倣って働き始める労働者です。親が亡くなったら住職となり自坊を継ぎ、経営者になります。労働者も経営者も俗世の存在です。中には俗世にどっぷり浸って、お金や女性が大好きになってしまい、口を開けば下衆な話ばかりする僧侶もいます。だいたい、自分の生まれ育った家(寺)に住んで親と一緒に働いていて「出家」とか、理屈に合わない気もします。

 

さて、前述の95歳の住職様のように、立派に跡を継げる息子さん(副住職様)がいらっしゃっても、命ある限り住職として現役でいるという人が結構います。その一方で、ある時を境に、息子に住職を譲り、引退する住職様もいらっしゃいます。例えば、サラリーマンが退職したら、その会社とは基本的に縁が切れて、会社員ではなくなります。しかし、僧侶は引退しても同じお寺の僧侶というのが一般的です。私の知る中でも、引退してお寺の仕事をすることが少なくなっても、ときどきお葬式や法事で読経したり、お寺の世話をしている姿を見かけます。今の時代らしく、介護を受けてデイサービスに通う人も結構いらっしゃいます。「出家」の対義語は「還俗」ですが、理論上は一度出家して僧侶になったら、引退しても還俗しないという理屈になっているのかなと思います。今の時代では、定年までサラリーマンとして勤めても、まだまだ働ける健康状態と、働かなきゃいけない経済状況があって、嘱託やアルバイトのようなことをして働く人が多いと思います。定年後は趣味や旅行で悠々自適というのは、ひと握りの人たちにしか許されない生き方のような気がします。

そんな中、晩年の僧侶たちがどんな風に過ごすことが理想的なのだろうか。僧侶として生きてきた人々にとって納得のできる過ごし方と、僧侶を敬う衆生の人々が納得できる僧侶の晩年に、接点が見出だせるでしょうか? 死ぬまで現役住職、70歳を超えても、80歳を超えても、動けなくなるまで葬儀に出ます、という僧侶はまだまだ多いです。コラム「三宝に帰依する」にも書きましたが、やはり私は僧侶に理想を求めていて、僧侶とは職業ではなく生き方だと思っています。僧侶は労働などしてはいけないし、対価を得てもいけない。法を学び、行を修め、苦しみからの解脱する道を求めて欲しい。そんなこと現代の日本では不可能だとは思いますし、こうなってしまったものを、今更元へは戻せない。

そこで私が考える日本の理想の僧侶の生き方は、出家(得度)したら、数年間は親元を離れ、宗派が課している様々な修行を修めます。一通りの初級的な修行を終えたら、自坊があれば自坊へ帰り、他の寺に勤めたり、寺の娘と結婚して跡継ぎになったり、様々でしょうが、自分が生活の場として過ごす寺に入った瞬間から、還俗したという扱いで良いと思います。還俗僧侶は、一般社会の人たちと共に暮らし、お葬式や法事で読経して対価を得たり、経済的に苦しければ、労働をしたりして生活資金を得ます。結婚をして性行為もして子どもも生み育てます。ただ、その間も修行を進め、更に一般社会からも学びを得て、人が生きる社会の厳しさ素晴らしさ儚さ危うさなど、還俗僧侶として感じ取って経験を得ます。還俗僧侶でも求道の精神は忘れてはいけません。キャバクラに行ったりギャンブルに興じたり家族旅行したりして、俗世の幸福を求めることもたまには良いと思いますが、娑婆の世界が良いなら、そのまま還俗して僧侶をやめれば良いと思います。

そんな感じで経済活動をしながら衆生と共に生きる還俗僧侶として過ごすうちに、息子なり跡継ぎの僧侶が自坊へ帰ってきて、継がせて良いと思えるようになれば、そこでもう一度出家(得度)するのです。そこからは、生きていくことの苦しみから救われる法を求め、苦しみの輪廻から解脱すべく、煩悩を捨てて求道に専心するという晩年を送ってほしい。80歳を超え、60年も僧侶として生きてきたのに、悟りに至らない、仏道を極められず、仏教の最終目的である解脱ができない。というのでは惨めです。日本の社会では仏教が「葬式仏教」と化し、僧侶が社会的に経済活動をしなければ生きていけないなら、せめて晩年は正しき出家者として俗世を離れて、仏道を成し遂げてほしいと思います。

 

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