寺社探訪

寺社探訪とコラム

特別企画「多摩川左岸 百所巡礼4」

小田急線と世田谷通りを横切って、狛江市元和泉に入ってきました。多摩川沿いに立つ住宅と住宅の間、小さな祠にお地蔵様が安置されています。扁額的なものに何か書かれているのですが、達筆すぎて読めません。

達筆すぎるで思い出しましたが、先日お亡くなりになった瀬戸内寂聴さんが、ある方のご葬儀に直筆の弔辞をFAXで送ってこられたことがありました。私はその葬儀で司会をしていたのですが、ぜひ読んでほしいと渡されたそのFAX、解読できたのは半分くらいでした。葬儀のお手伝いをされていた出版社の社員さんの中に、ちょうど瀬戸内寂聴さんの担当をされていた方がいらっしゃって、「ああ、普通の人では読めませんよ」と、全部解読してくれました。

多摩川左岸巡礼23番:狛江市元和泉 地蔵尊

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おそらく、手作りなんじゃないかと思う祠です。具足類やお供え物もきちんとされています。奥に何やら書かれた板があるようですが、字が薄くなって読めなくなっています。この祠のある敷地の住宅とデザインが一体化しているので、おそらくはこちらの方がお守りされているのかなと思います。

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この辺を「多摩川五本松」通称「狛江五本松」と呼ぶそうです。実際には5本ではなく、もっとたくさん松が並んでいますし、松ではない木も並んでいます。川岸に松並木で、いい景色だなぁ、という景勝地として「新東京百景」というものに選定されています。

多摩川左岸巡礼24番:水神社

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大田区の羽田水神社もそうでしたが、水と縁の深い場所に水神社が祀られていることが多いです。地域の人々の生活と密着している感じ。狛江の水神社のある場所には、そもそも六所宮がありました。創建は寛平元年(889年)府中の六所宮の御祭神を勧請して建てられたとされています。天文19年(1550年)の多摩川の洪水で社地が流失してしまい、六所宮は別の場所に転座しました。

そして慶長2年(1597年)に元の場所に、六所宮の境外末社として建てられたのが水神社です。その後、徳川家康の命で全長23kmの灌漑用の六郷用水が小泉次大夫によって造られましたが、ちょうどこの水神社のある場所がその取水地となりました。排水池は、羽田を歩いたときに訪れた六郷水門です。水神社の御祭神は、水を司る水波能売命(みづはのめのかみ)と、灌漑用水の神として小泉次大夫をお祀りしています。六所宮は明治元年に伊豆美神社と改名して、狛江総鎮守となっています。

ふと、思いました。世田谷野毛の六所神社の創建は、元和年間(1615-1624年)で、洪水で流されてきた府中の六所宮の御神体をお祀りして創建したのですが、その流された六所宮って、伊豆美神社のことだったのでは?

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水神社のほど近くに、日蓮正宗の寺院があります。こちらは仏寿寺と言い、昭和53年(1978年)に創建されました。日蓮正宗の寺院は、表向きはさておき、実質は檀家だけの寺院ですので、部外者が気軽にお参りに訪れたりすることはありません。しかもこの日は何やら仏事が行われていた様子で、関係者が頻繁に出入りしていて、近づくことはいたしませんでした。お隣が創価学会の会館になっているのは、仲睦まじき昔の名残りなのでしょうか。そうでなければかなり強烈な宣戦布告ですね。

多摩川左岸巡礼25番:狛江市元和泉 庚申塔

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こちらは庚申塔です。コンクリートの祠に入って、扉もチェーンでロックされています。イタズラされたことがあるのでしょうか? 中にはおそらく青面金剛と何かの菩薩の石碑が2つ建っています。何やら書かれているプレートが貼ってあるのですが、小さな字で読みづらい。これ、結構交通量のある歩道に面して建っているので、食い入るように覗き込んでいる自分を、第3者の自分が見て恥ずかしがっていました。

写メに撮って後で読んでみると、寛政6年(1794年)に造られた庚申塚で、ここより東方70mの三叉路にあったそうです。六郷用水が役目を終えて埋められ、道路改修のために現在の水神社の傍に遷座されたそうです。何かの菩薩に見えたのは、庚申塚遷座の際に併せて遷座された聖徳太子像だそうです。

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多摩川沿いにどんどん進みます。狛江市から調布市に入りました。このあたりは調布市染地です。日活撮影所があるあたりだと思われます。天気もよく視界も開けているので、ガツガツ歩いていきます。

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二ヶ領上河原堰提です。この堰は川崎市側に水を引くための堰です。古くは農業でしたが、京浜重工業地帯の発展とともに、工業用水としても利用されました。調布市側と川崎市側で構造が違う堰提になっています。

多摩川左岸巡礼26番:白衣観音菩薩

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京王テニスクラブを過ぎたあたりに白衣観音菩薩があります。消防団の機材置き場の隣にある、さくら緑地の一角に建っています。世田谷の六所神社や狛江の水神社のお話にも出てきましたが、天明、寛政年間は毎年のように台風で多摩川が氾濫していたそうです。その上富士山も大噴火して、田畑が壊滅的な打撃を受けたとのこと。そこからしばらく平穏だったのだが、明治42年に台風で多摩川が氾濫し、あたり一面濁流と化したそうです。その後、押立村付近に仏像が流れ着き、村の篤志家の家に保管されていました。それをこの地域の人々が交渉して譲っていただき、大山道の十字路にある榎の巨木の下にお堂を造って安置していたそうです。現在の大映スタジオ近くの桜堤通りの交差点です。桜堤通りは交通量が多いので、現在後に移転してきたということです。榎の木の下に安置したので、「榎観音菩薩」と呼んでいたそうですが、調布駅近くの日蓮宗の寺院、蓮慶寺のご住職がこの像は「白衣観音菩薩」であることを告げ、それ以来白衣観音菩薩としてお祀りしているそうです。という御由緒が壁にかかっていました。お花もお供え物もきちんとされていて、奉賛会を作ってお守りしているそうです。

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白衣観音菩薩があるさくら緑地に、菅の渡しについての説明書きがありました。調布市と対岸の矢野口、菅との交通機関としては江戸時代からずっと渡しが担ってきました。このあたりはいくつかの渡しがあって、時代によって場所も違っていたそうです。通常橋が完成して役目を終えるのですが、多摩川原橋が完成したのは昭和10年です。菅の渡しは、その後もずっと利用され続け、京王相模原線が昭和46年に開通し、そして昭和48年についに最後の多摩川の渡しとなった「菅の渡し」が姿を消すことになります。

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そんな事を言っている間に、調布市から府中市に入ります。よく整備された多摩川沿いの土手を、行者のごとくガシガシ歩きます。途中に立ち寄るべきお参りポイントを知らないので、無心で歩いていたら府中市に入っていました。調布市府中市に寺社が少ないということはないのです。たまたま多摩川沿いには無いのか、私が知らない(見つけられない)だけです。ここは押立の渡し跡。さすがお金持ち自治体と言われている府中市です。渡し跡には石碑を建てているようです。押立の渡しは昭和17年まで現役で稼働していました。

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海から30kmです。奥に写っている池のような場所は、多摩川の水を人工の川に引いている多摩川親水公園の終点の水たまりです。

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稲城大橋を横切って少し進むと、常久の渡し跡があります。常久というのは昔の地名で、現在は存在しませんが、公園や神社の名前に残っています。常久の渡しは主に作業用に利用されていたそうです。

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渡しばかりになっていますが、なかなかお祈りポイントに差し掛かりません。府中市はこのまま寺社なく終わってしまうのか。是政の渡しは、昭和16年まで現役を続け、是政橋がその役目を引き継ぎました。

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こちらが是政橋です。かなり格好いい斜張橋です。東京オリンピックの自転車ロードレースでは、府中の大國魂神社境内を通過して、この橋を渡りましたね。是政橋には府中街道が通っています。橋を渡ると川崎街道に当たります。

 

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こちらは大丸用水堰です。堰はただ水を止めるだけではなく、川に生息する魚も堰き止めてしまいます。上流と下流の間で魚を行き来させるために魚が通る「魚道」が作られています。上( ↑ )の写真で、川の流れに沿って滑り台のようになっているのが魚道です。

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 府中市に入ってまだひとつも寺社に訪れていません。河川敷の道がまーっすぐ続いていて、「ただ歩く」という修行のような心境になっていきます。禅宗の教えでただ座る「只管打坐」というのがありますが、「只管打歩」とでも言うべきか、なかなか良い修行です。何も求めずに、歩いて歩いて、歩いていると、俗世と自分を繋いでいる鎖が1つずつ切れて、気持ちが楽になっていく感じがします。悟りというのは、何かを学んだり取り入れたりして得るものではなく、既に自分にあるものを切り離していくことでわかるものなのだと実感します。

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府中市もすでに半分以上過ぎて、このままでは最短コースで直線通過してしまいます。関戸橋を通過して、京王線までの間に、中河原の渡し碑があります。中河原の渡しは、昭和12年に関戸橋の完成で役目を終えます。関戸橋は鎌倉街道が通っていて、多摩川周辺にいくつかの古戦場があります。その時代に渡しがあったかは知りませんが、多くの人が行き来していたと思います。

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一の宮の渡しは、昭和10年にはまだ存在していたそうです。都市化とともに姿を消しました。一の宮の渡し碑は、府中市の四谷庭球場がある四谷緑地の入り口に建っています。ついに府中の西端、四谷まで来ました。

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河川敷の野球場は、是政橋付近の府中郷土の森公園内にある球場を最後に、しばらく姿を見せません。写真( ↑ )の対岸には、進化し続ける帝都の町が見えています。大きなすすきが風に揺られています。私はただ歩いています。

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四谷橋が見えてきましたかっこいい2連の斜張橋です。そして、府中市を過ぎ去ろうとする、ほんの少し手前、西端の町、府中市四谷6丁目でついに・・・

多摩川左岸巡礼27番:上ノ島神社

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小さな境内ですが、交差点にあって、なかなかの存在感です。元和元年(1615年)に創建されたが、多摩川の大洪水で没流し、この地に遷座したそうです。境内にある資料には、旧地の森が多摩川に洪水で川原に没したため、村人土方織部と土方八郎左衛門がここへ遷座したものと書かれています。このあたりで土方姓は、対岸の日野市石田が本拠地です。新選組土方歳三もそうで、ちょうど対岸にある石田寺が土方家の菩提寺です。ということでこの資料から、かつては多摩川は上ノ島神社より北側を流れていて、この地は日野市石田とひとつだったのではないかという説が浮上します。

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境内に入ってすぐ左にある小さな社です。猿田彦大神と書かれていますので、たぶん庚申塔ですね。

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この上ノ島神社は、そもそも神明の森と呼ばれるところにあり、神明社だったそうですから、御祭神は天照大神です。本殿には上ノ島神社という扁額と、稲荷社という額が付けられています。稲荷社を合祀した歴史があるのだと思います。境内の整然とした感じから、この神社をお守りしている人たちがいるのだとは思いますが、それにしては人の管理を感じさせない神社です。

おそらく、調布市府中市でもっと多くの寺社に立ち寄れたはずだと思います。「ただ歩く」という行に専心しすぎて、府中市の端まで来てしまいました。もう5分もしないで国立市に突入します。こんな感じでゴリゴリ歩くのか、また環境が変わってくるのか、どうなっていくでしょうか。