寺社探訪

寺社探訪とコラム

「荒川 百所巡礼 14」

目次

日本一長い橋ではない

川幅日本一の柱が立つ御成橋です。このような名前が付くのは、将軍がどこかへ向かう時に通った道というのがセオリーです。田舎であれば鷹狩とか。ここには家康が鷹狩のときに使った渡し船があったのだそうです。こんな遠くまで狩りに来るのもびっくりですが、鴻巣御殿と呼ばれる将軍御用達の宿泊所があったそうです。

富士山が見えます。不思議なのは、川幅日本一の場所に架かる橋が、日本一長い橋ではないことです。日本一長い橋は東京湾に架かるアクアブリッジで、不思議なことに御成橋は長い橋ランキング40位にも入っていません。海に架かる橋は反則でしょ、と思うことなかれ。川に架かる橋でも日本一ではありません。

遠くの方の山々が雪化粧をして連なっています。このような景色は初めて現れました。秩父の山々に近づいているということですね。

滝馬室橋を渡ります。荒川に架かる橋ですが、渡り終えるのに1分もかからないほどの長さです。このような橋は冠水橋とか沈下橋と呼ばれる、川が増水したら水中に沈んでしまう橋です。川の流れの抵抗に耐えられるような工夫がなされています。

川幅日本一の川がこちらです。どこが日本一だよと思いますよね。こんな川幅なのに氾濫して何世紀も人々を悩ませたとは信じがたいですが、2019年に多摩川が氾濫したのですから、荒川も氾濫して不思議無いということですね。

少し先にひょうたん池という釣人が好きそうな池があります。ひょうたん池から水路が荒川に流れているのですが、川というかドブと言うか、気色の悪い未知の生物が潜んでいそうな感じです。

 

荒川 百所巡礼 第111番 石仏群

石仏群が現れました。一番大きな石版には、普門◯供養塔と書かれていますが、◯が読めません。他には六地蔵地蔵菩薩、三角のものは馬頭観音です。

 

荒川 百所巡礼 第112番 百番供養塔

先程の石仏群のすぐそばですが、ここから比企郡吉見町です。奉納坂東西國秩父百番供養塔 そのあとは読めません。百番供養塔は、西国、秩父、坂東合わせて百ヶ所の霊場を巡礼するもので、江戸時代に流行しました。百ヶ所達成の記念に供養塔を建立したのでしょう。

 

多摩川右岸 土手の内側を歩く

荒川 百所巡礼 第113番 明秋神社

見渡す限りの平地を歩きます。日本一の河川敷にも神社があります。明秋神社は天照大御神豊受大御神を祀る神明社で、旧村社です。このあたりは、対岸の鴻巣に宿場町が形成される際に、宿場を支える耕作地として利用され、荒れ地以外全面畑で、鴻巣の付属地になってました。豊作を願ったり、洪水を除けたりするために伊勢の御祭神を勧請したのだそうです。

小さいですが、拝殿の奥に本殿がきちんと造られています。明治時代に入って鴻巣からの独立分村が認められ、明治の秋に独立ということで明秋村となりました。

明秋神社付近から見た糠田橋です。これだけ平原が続いていると、荒川が氾濫したら周囲一面即アウトな怖さがありますね。ただ、ここにひとりポツンと立っていると、非日常感が半端なく「世界にたったひとり」みたいな気分になります。ぜひ、ドローンで自分を撮影したい。

 

荒川 百所巡礼 第114番 九頭竜大神

九頭竜に対する信仰は日本の様々な地域で興っていて、それぞれに微妙に違うので掴みどころのないものとなっています。よく言われているのは、山と川に関わることが多く、山岳信仰神仏習合の影響を受けて、九頭竜権現を祀ることも多く、水神として水を司る神とされることも多いということです。

 

荒川 百所巡礼 第115番 稲荷社

赤い鳥居に赤い社殿の稲荷社が登場しました。この稲荷社の前に共同墓地があったのですが、その墓地の記念碑を読むと、なんとも考えさせられます。明治に明秋村として発足し、荒川の氾濫に悩まされる反面、土地が肥沃になるという面もあり、この土地で農業に生きてきた人々がいらっしゃいます。明治大正昭和にかけて、首都東京での洪水被害を防ぐために、中上流に横堤を造りまくりました。そのために東京での被害は激減したが、明秋村の方々は横堤に土地を奪われ、洪水災害の危険に晒され、住み慣れた土地を移ることもあったそうです。東京の安全は、明秋の方々の犠牲の上に成り立っている部分もあるということです。

野球場やサッカー場、テニスコートなど様々なスポーツ施設を持つ吉見総合運動公園を過ぎて、土手道に合流しました。黄色い菜の花が美しいですね。今は右岸を歩いていますので、荒川は右側です。区別がつかない景色になってきましたね。

海から64.8km地点に到達しました。右手に吉見ゴルフ場があります。こちらのゴルフ場は良い意味で、上流階級の社交の場ではありません。庶民のスポーツとして親しまれていて、老若男女がゴルフを楽しんでいる姿が見受けられます。奥様というよりオバチャンと呼ぶ方が相応しい方々が、楽しそうに笑い合う声が聞こえてきます。

彷徨う道しるべ

荒川 百所巡礼 第116番 荒神

土手の外側に荒神社がありました。そもそもは武田信玄の家臣の原家の鬼門除けのために祀られた神社です。御祭神は火産霊神ホムスビ)、奥津彦神(オキツヒコ)、奥津姫神オキツヒメ)です。ホムスビはカグツチとも呼ばれる火の神で、イザナミから生まれてそのままイザナミを焼き殺して、怒ったイザナギに斬り殺されるという、ある意味強烈な神様です。秋葉神社愛宕神社など、火にまつわる神社で祀られています。

オキツヒコオキツヒメは竈の神様で、日本で竈を炊いて料理をする文化が始まった古墳時代前期から、竈神と呼ばれる神は信仰されていたそうです。火の神+竈神で竈三柱神とひとくくりにされていますので、この荒神社は竈三柱神を祀った神社ということになります。武田家が敗れてこの地に土着帰農した原家によって、村が開発されていったとのことです。

緑の土手の外側を進みます。ここは荒川右岸、埼玉県比企郡吉見町一ツ木です。

 

荒川 百所巡礼 第117番 ふる里へ帰った道標・庚申塔

畑に囲まれた道を進みますと、説明書きのある道標兼供養塔と庚申塔がありました。この道標は五反田河岸というところに建っていたものです。江戸の物流は馬と舟が支えていて、このあたりに五反田河岸という河岸があったのです。周辺の村々から集められた物資が五反田河岸から舟を使って荒川を下り江戸に運ばれ、逆に江戸から様々な物資が到着して五反田河岸から各村へ運びました。荒川流域で幕府公認の4つの河岸のひとつだった五反田河岸には多くの利用者が集い、大いに賑わいを極めていました。

五反田河岸に建っていた道標兼供養塔は、昭和10年頃より行方不明になり、探していたところ、大田区山王町の徳富蘇峰邸にあることがわかり、昭和60年に50余年振りに故郷に戻りました。この供養塔の正面には「天下泰平国土安穏 奉納経供養塔」側面には「右まつやま 左よしみいわとの道」裏面には「めぐり来て 五十路に近きとしなみのよをふる里へ帰るしるべに」と刻まれています。

 

荒川 百所巡礼 第118番 庚申塔馬頭観音

土手の外側に戻りました。文字の庚申塔に三猿が刻まれています。馬頭観音は無惨なほどに風化して胴体がえぐれています。右のお札は神社のお札のようです。神仏習合の何でもアリな感じが見受けられます。まだまだ荒川右岸を遡上します。快調に歩いていますが、次回は私の足に(靴下に?)問題が発生します。お楽しみに。

 

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