寺社探訪

寺社探訪とコラム

真言宗豊山派 善養寺

真言宗豊山派 善養寺 目次

名称・寺格

星住山(せいじゅうざん) 地蔵院 善養寺と称する真言宗豊山派の寺院です。寺格は特にありません。別称、小岩不動尊といいます。

創建

大永7年(1527年)に山城国醍醐山の僧頼燈法印が夢のお告げに従い、不動明王を当地に安置し、一宇を建立したことが始まりです。

本尊

延命地蔵菩薩

みどころ

盛りだくさんの境内は多くのみどころがあります。特に釈迦の聖地のお砂踏みは非常に珍しいです。また影向の松は国指定の天然記念物であり、圧倒的な存在感があります。

アクセス

東京都江戸川区東小岩2-24-2

JR総武本線「小岩」下車、バス「江戸川病院前」下車3分

探訪レポート

朱塗りの立派な仁王門がありましたので、そちらから入らせていただきました。仁王門の裏には横綱銅像と綱が安置されていました。こちらは小岩出身の名横綱、「栃若時代」と呼ばれる時代を築いた栃錦春日野親方が奉納した横綱です。ただ、こちらは栃錦横綱ではなくて、「影向の松」の横綱なのです。善養寺は大相撲と非常に深い縁で結ばれている寺院なのです。

仁王門を入って右側に釈尊聖地土砂宝塔と呼ばれる塔のあるエリアがあります。昭和31年にネパールで開かれた世界仏教会議の際に、インドの仏教の聖地8か所の砂を持ち帰ったとのことで、宝塔の周囲に埋められて、聖地巡礼のお砂踏みができるようになっています。この開眼供養は昭和33年に行われましたが、インド大使や東京都知事ほか5000人の参列のもと執り行われたそうです。

丸い石がたくさん埋まっているエリアがあります。それぞれ何かが刻まれていて、奉納されたもののようです。力石にしては小さいので、祈願のためのものなのかなと思います。

お地蔵様やらたくさんの石仏です。この石仏群の前方に置かれています小さな塔婆ですが、これは紙なのか木を薄く削いだものなのか、ペラペラです。ここ最近このタイプの塔婆をよく見るようになりました。エコ目的なのか何なのか。塔婆がだんだん短くなる世の流れですが、ついにこんなに小さくペラペラになっています。

こちらが不動堂です。善養寺は別名小岩不動尊と称されていますし、寺院創建の由緒も不動明王像をこの地にご安置したことから始まっています。寺内でも重要な堂宇ですね。不動明王像は秘仏とされていますが、正月三賀日は御開帳されるとのこと。三賀日と不動明王の縁日である毎月28日に護摩供をしているそうです。

本堂はかなり大きくて、間口14間とのことですので、25mほどあります。本尊は真言宗としては珍しい延命地蔵菩薩像で、「金剛場」という扁額は仁和寺真乗院の源証僧正の筆だそうです。本堂の入口横に「おびんずる様」が安置されていて、半紙でこするようになっています。おびんずる様は宗派を問わず様々な寺院に安置されていますが、釈迦の弟子のひとりで、ビンドーラ・パーラドヴァージャというスラスラ読めない名前です。漢読みで賓頭盧=ひんずるとなりました。十六羅漢の第一で獅子のごとき説法をするので獅子吼第一と呼ばれたそうです。

本堂の横に密厳宝塔と称する二重の塔があります。平成8年建立だそうです。本堂の正面に影向の松があります。松はとても背が高くなる樹木ですが、横に横に広げていくとこんな風になるのですね。枝の広がり面積が日本一とのことで国の天然記念物に指定されています。近くの松本弁天寿昌院にも立派な松がありますね。

かつて善養寺の影向の松は香川県の岡野マツと日本一論争を繰り広げました。双方譲らず、1年以上も論争を続けた挙げ句、善養寺で営まれた行司関係者の法要で、香川県出身の行司と善養寺の住職が日本一論争で揉めだしました。そこに居合わせた行司の最高位であった木村庄之助が「双方日本一なので引き分け」と裁きました。そして同席していた日本相撲協会理事長だった春日野親方が、「双方を東西の横綱に推挙します」とその場を収めました。という訳で、冒頭に紹介した影向の松のための横綱が奉納されているのです。

こちらは客殿で影向殿と称します。寺務所や庫裏も兼ねていると思います。境内で1番大きな建物です。

善養寺にはもうひとつ門があって、アクセス的にはこちらの門の方が大通りに近いです。江戸時代からある門で、不動門と称しています。正面に不動堂があるからでしょうか。

通りから見るとこのような入口になっていて、こちらから入られる方が多いのかなと思います。スッキリしているのに重みが感じられる寺構えです。

入口から門へ続く参道脇に色々と石碑があります。その中に天明3年(1783年)の浅間山噴火横死者供養碑があります。噴火の火砕流が麓の村々を押し流し、善養寺前の江戸川まで多くの遺体が漂着し、船の通行を妨げるほどだったそうです。13回忌に当たる寛政7年(1795年)に建立された供養碑は、東京都の文化財に指定されています。

不動門を入り右手に進むと修行大師がいらっしゃいます。傘を被っているのですが、球体を二分割したような傘で、手抜きと言いますか、少し変です。1150年の遠忌記念に、昭和59年に建立されました。

その隣に鐘楼堂があります。こちらの梵鐘は戦時中に金属回収されてしまいました。余程の価値がないと、当時の梵鐘は供用の対象となってしまっています。現在の鐘楼堂は昭和59年(1984年)に改修されたものです。

築山があるのですが、横綱山と称しています。こちらは昭和55年から平成2年まで、境内で行われた子供相撲大会に、小岩出身の名横綱栃錦(春日野理事長)が弟子の関取と共に参加したことを記念して、その土俵の土で作った山です。現在でも大相撲は人気ですが、当時の栃錦と善養寺のエピソードを知ると、一時代を築いた横綱がいかに社会的に大きな存在であったかがよく分かりますね。

大師堂です。真言宗ですので、弘法大師を祀っています。善養寺は真言宗豊山派の寺院ですが、周辺の豊山派寺院の中核となるような位置付けです。

こちらは「特操顕彰の碑」と言います。太平洋戦争末期に不利な戦局を打開すべく、特別操縦見習士官、略して特操という航空将校の短期育成制度を作りました。「見習い」と「将校」という矛盾が既に苦しいですが、それも学徒を戦争に参加させる手段のひとつです。そんな矛盾をすべて飲み込んで国のためにと奮起した学徒の方々の多くが、特攻作戦によって命を落としました。生き残った同期の方々が、社会から失われていく記憶を遺すために、この碑を建立されました。

こちらが四国八十八ヶ所のお砂踏みです。大正時代に造られたものだそうです。ここを通ることで四国八十八ヶ所を巡拝したのと同じご利益をいただけるということになっています。お遍路は誰にでもできるようで、なかなかハードルが高いです。同様の経験はできませんが、気持ちを込めて巡拝します。入口から奥へ歩いていくと、段々と不思議な気持ちになっていきます。閉ざされた特別な場所という感覚に支配されます。有り難く思いながら、ゆっくり歩きました。

影向の松の存在感に隠れてしまいますが、見どころがたくさんある寺院です。石碑や説明板を読んでいますと、善養寺だけでなく小岩や東京、日本社会と関わりながら歴史を紡いできた寺院なのだということがよくわかります。

最後にご紹介したいのが、報恩の軍配という、大相撲と縁深い善養寺に伝わるエピソードです。三役格行事であった六代木村宗四郎さんが、巡業中に倒れて闘病生活を余儀なくされます。リハビリに励む宗四郎さんに、いつかこの軍配に漆を塗って三役相撲を裁いてほしいと、白木の軍配が送られます。宗四郎さんはこれを心の支えにして再起を目指していましたが、志半ばで帰らぬ人となってしまいました。宗四郎さんの奥様が、忍びないとのことで白木の軍配を善養寺に預けました。その5年後、相撲関係者の年忌法要で住職から経緯を聞いた二代目式守伊三郎さんが、ぜひその軍配で三役相撲を裁かせてほしいと申し出ます。伊三郎さんは宗四郎さんに父代わりのようにお世話をいただいた恩返しがしたかったのです。通常、白木の軍配は幕下以下の取り組みで使われるのですが、伊三郎さんは住職を招待し、三役相撲を宗四郎さんの白木の軍配で裁いたというお話です。堅そうな相撲協会ですが、このような心温まる話があるのですね。

 

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