寺社探訪

寺社探訪とコラム

素盞雄神社(荒川区)

素盞雄神社 目次

名称・旧社格

素盞雄神社と称します。地名を付けて千住素盞雄神社と呼ばれることもあります。旧社格は郷社です。

創建

延暦14年(795年)に、役行者の高弟である黒珍(こくちん)の住居の東方の小高い丘にあった奇岩(瑞光石)が光を放ち、二柱の神が翁となって現れ、「吾れは素盞雄大神、飛鳥大神なり。吾れを祀らば疫病を祓い福を増し、永くこの郷土を栄えしめん」という信託を黒珍に授けました。黒珍は祠を建て、祈願を祀って当社を創建しました。

御祭神

素盞雄大神(すさのおのおおかみ)

飛鳥大神(あすかのおおかみ)

みどころ

広くない境内ですが、スッキリと整えられています。境内に説明板がたくさんあって、地域の歴史への理解が深まります。荒川区内最大の氏子地域61ヶ町の鎮守となっているので、6月の天王祭と9月の飛鳥祭は盛大に行われます。

アクセス

東京都荒川区南千住6-60-1

JR常磐線「南千住」徒歩8分

京成線「千住大橋」徒歩8分

探訪レポート

1200年の歴史を持つ素盞雄神社へ行ってまいりました。スサノオを祀っているからスサノオ神社なのですが、同じ神様を祀る神社でも、どういう由緒でその神を祀っているのかによって神社の性格が変わります。ここ素盞雄神社はわかりやすく、祇園信仰です。祇園信仰スサノオ牛頭天王という神仏習合の信仰です。素盞雄神社と称しているのは明治維新神仏分離令によって神社で牛頭天王を祀ることを禁止されたため、垂迹神であるスサノオと称したという訳です。

手水舎です。手と口と心を清めましょう。この手水舎の水は平成26年(2014年)に神事と非常事態の地域の生活用水となるべく掘削された140mの深井戸から汲み出される御神水だそうです。由緒によるとこの神社に祀られたのは牛頭天王と飛鳥大神。飛鳥大神とはなんぞやと調べますと、事代主神垂迹神で、飛鳥大神=事代主神恵比寿神という感じで祀られているようです。飛鳥大神については、奈良の飛鳥が語源のようで、百済民の神という記述もあり、結局よくわかりませんでした。恵比寿神と同一視されているので、海外から来た神様なのかもしれません。

整えられた植木と石畳のきれいな境内です。お茶でも飲みながらゆっくりしたい感じですよね。「蘇民将来子孫也」の旗が建っています。これは神様の説話が民間信仰になっているもので、平安時代には信仰が存在したそうです。武塔神が旅の途中で宿を乞うたところ、裕福な弟の巨旦将来は断り、貧乏な兄の蘇民将来は精一杯もてなしました。後に武塔神蘇民将来の娘に茅の輪を身につけるように言い、弟の巨旦将来の一族を滅ぼしてしまいます。そして武塔神は自身がスサノオであると名乗り、茅の輪を身につけておくと疫病を避けることができると伝えたという説話。疫病除けや災厄除けのために「蘇民将来子孫也」と書かれた神札や角柱や茅の輪を護符として持つ民間信仰が全国に広がりました。

楽殿の中に何か飾られています。「桃の祓 なでもも」と書かれています。左から「後顧(こうこ)の祓」「中今(なかいま)の祓」「幸先の祓」と3つの緑の桃が置かれています。なでももというからには撫でることで御神徳をいただけるものだと思いますが、神楽殿の中に展示していては、撫でられませんね。

楽殿の奥に境内社が3社あります。左が福徳稲荷神社で、宇迦之御魂神をお祀りしています。五穀豊穣の神様です。中央が菅原神社で、菅原道真を祀っています。学問の神様です。右側も稲荷神社で宇迦之御魂神を祀っています。稲荷神社が2つあるのはどうして? と思う方もいるかも知れませんが、そんなに珍しいことではありません。稲荷神社だらけの神社もあります。きっと歴史の中で近隣の稲荷社を合祀したなどの理由があると思います。

拝殿前の狛犬は溶岩のような岩の上に躍動感たっぷりに配置されています。素盞雄神社の境内には富士塚がありますので、この狛犬のデザインになったのかと思います。

こちらが拝殿です。御祭神は素盞雄大神と飛鳥大神です。元々は別々の社殿に祀っていたそうですが、亨保3年(1718年)に火事で社殿を焼失し、2柱を祀るひとつの社殿を建立しました。そのために例大祭にあたるお祭りが年に2度あり、素盞雄大神=牛頭天王の例祭が6月の天王祭、飛鳥大神の例祭が9月の飛鳥祭となっています。素盞雄神社の神輿は二天棒といいまして、神輿の担ぎ棒が横側に無く、縦に二本のみで、左右にブンブン倒すことで厄を振り落とすという珍しいタイプです。氏子地域が61ヶ町ということですから、各町を渡御して回るだけでも大変ですね。

こちらは社殿の右側になります。子育てのイチョウと呼ばれる御神木に絵馬が吊るされています。この木の皮を煎じて飲み、周囲に米の研ぎ汁を撒くと乳の出が良くなるという伝承があります。幹の周囲3.3m、高さ30mとのことです。

境内に人口の川と橋があります。千住は松尾芭蕉奥の細道に出発した地です。矢立て初めの地と言って、矢立てとは携帯用の筆記用具のことです。宿場として栄えた町ですので、文化人が集まった街でもあります。この橋を渡ると江戸の千住の文化人たちが建てた松尾芭蕉の句碑があります。

素盞雄神社の創建の由緒となった素盞雄大神と飛鳥大神が現れた瑞光石があった小高い塚に元治元年(1864年)に富士塚を築いて浅間神社を祀りました。塚上には20基の奉納碑が建てられていて、社務所前の案内板に詳細が記されています。かつては門前町で蕎麦の蛇がお土産として売られていたほど、富士詣りが人気を博していたそうです。7月1日の山開きの日の一定時間に限って、今でも登ることができるそうです。

こちらにも登り口があります浅間神社の石碑が建っていますので、こちらが正面です。右の祠が瑞光石をお祀りしている社です。小さな鳥居を奉納する仕組みになっているんですね。

少し離れて撮影したのがこの写真です。「天王社・飛鳥社」の提灯が下がっています。文政12年(1829年)編纂の「江戸近郊道しるべ」によると、瑞光石の根が隅田川まで伸びていて、千住大橋を架けるのに橋脚が打ち込めないという出来事があったそうです。

3基の石像(石碑)が建っていますが、こちらはすべて庚申塔です。60日に一度訪れる庚申(かのえさる)の日は、眠っている間に体内にいるとされる三尸虫がその人の悪事を天帝に報告するという言い伝えが元になっています。私は悪事などしていないので、報告されることはありません。という自信のある人は昔もいなかったようで、対策を寝る訳ですが、だったら眠らなければいいんでしょっ? と逆ギレ的な解決策を講じます。中国から伝わった風習ですが、日本に伝わると仏教や神道陰陽道や、様々なものと習合します。庚申の日には皆で集まって眠らずに過ごし(庚申待という)、これを3年18回続けたら、記念に庚申塔を建てるという習慣が生まれます。庚申塔は村の入口や分岐などに道しるべや魔物避けの意味で置かれていたそうです。真ん中の庚申塔が寛文13年(1673年)のもので、聖観音像です。裏に庚申塔供養・念仏講供養と書かれていて、庚申信仰阿弥陀信仰が習合しています。左の庚申塔が延宝6年(1678年)のもので、如意輪感音像です。月待信仰に関する勢至菩薩の種子が刻まれていて、庚申信仰と月待信仰が習合しています。「見ざる言わざる聞かざる」の三猿と、朝が早く来るようにと二羽の鶏も刻まれています。右の石碑は青面金剛の文字のみの石碑です。それぞれの時代でさまざまな庚申塔の形が伺えます。

江戸時代は、江戸と北陸・東北方面を行き来するには、この千住の宿場町を通ることになります。千住大橋徳川家康が江戸に入府して間もなく、隅田川に架けた最初の橋です。江戸を出発する人はこの隅田川を渡る前に、これからの旅の安全を祈って、この素盞雄神社に立ち寄ったことでしょう。

 

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