寺社探訪

寺社探訪とコラム

天台宗 子の権現

天台宗 子の権現 目次

名称・寺格

天台宗 大鱗山 雲洞院 天龍寺と称します。寺格は天台宗の別格本山です。

創建

延喜11年(911年)、子ノ聖が十一面観音像を祀る天龍寺を創建しました。その後、弟子の恵聖が子ノ聖大権現社を建立しました。

本尊

子ノ権現 十一面観世音菩薩

ご利益

足腰守護の神仏として有名です。

みどころ

神仏習合の寺院の姿が見られます。重さ2トンの日本一の鉄わらじがシンボルとなっています。公共交通機関がなく、まさに秘境のパワースポットという感じです。

アクセス

埼玉県飯能市大字南461

圏央道「狭山・日高IC」より車で60分(Pあり)

西武秩父線吾野」「西吾野」から徒歩90分(ハイキング道)

探訪レポート

吾野駅から徒歩で90分とのことでしたが、私が通ったルート(吾野駅秩父御嶽神社→子ノ権現)だと、かなり健脚の方がよそ見をせずに歩き続けても90分で着けるのかな? という感じです。浅見茶屋を通るルートが一般的なのかなと思います。浅見茶屋は混んでいるそうですが、混雑を外して訪れると良いと思います。子ノ権現の入口のお土産屋さんを抜けると、朱色の大鳥居が建っていて、いきなり神仏習合を見ることができます。鳥居の足元には「禁葷酒」という石碑が立っています。禅宗の寺院の入口によく「不許葷酒入山門(葷酒山門に入るを許さず)」と書かれていますが、葷酒というのはニオイのきつい野菜(ニラ、ネギ、にんにくなど)とお酒のことです。神聖な場所なので、持ち込まないでくださいということです。

鳥居をくぐって真っ直ぐ進むと、今度は仏教的山門があります。右の看板は何が書かれているのかわからない状態です。扁額には「大鱗山」と書かれていますが字が潰れかけています。左側の立て看板に「当山は檀家を持たない祈願寺です。皆様のご志納料のみで維持運営されております」と書かれています。現代寺院事情を考えると、檀家がいない=葬儀がないということですから、維持運営は講の方々が支えているのかなと思います。

山門をくぐって進むと、仁王像が建っています。よく仁王門の中にいるので、むき出しで建っていると違和感があります。オレンジ色が鮮やかですね。この仁王像がむき出しでも平気なのは、コンクリート製だからなのです。コンクリート彫刻家の仏師という方がいらっしゃって、昭和11年(1936年)に建立されました。意外に古いもので、驚きました。

緩やかで真っ直ぐな坂を登っていきますと、なにやらわかりませんが石碑群が現れます。子ノ権現の「子」は十二支の「子」です。子の聖は天長9年(832年)子の月子の日子の刻に紀伊国に生まれました。7歳から仏門に入り、比叡山出羽国湯殿山で修行しました。行が円成して山頂に登り、自分が永くいるべき場所を示し給えと般若経巻を高く放り投げたら、当地子の山に止まって光明を放ったと言います。子の聖が光明を頼りに吾野にやってきたということです。

こちらが手水舎です。柄杓があったので、両手を浄めました。子の聖が吾野にやってきた頃、山中には山賊(鬼類)が棲んでいて、聖に来られては悪行ができなくなるからと山に火を放ったそうです。燃え盛る炎に足腰に怪我を負いながら、子の聖が端座合唱して、観音菩薩に念じたところ、雲に天龍が現れ、豪雨を降らせて火事を消し止めました。天龍は十一面観音菩薩の姿を現して、子の聖の手元に龍の鱗を一枚残し、雲の中に消えて行ったそうです。この奇跡を眼前にして、山賊は心を入れ替えて子の聖の弟子になりました。子の聖はこの地を「大鱗山 雲洞院 天龍寺」と名付け、衆生救済のために生き、火災と足腰の病を除く願いがあれば、永く衆生を守ると言い残して亡くなったそうです。

こちらは本坊です。江戸末期の建築で、茅葺屋根を維持しています。左側に寺務所があり、授与品や祈願の受付をしています。護摩祈願はいつでも受け付けているようですので、登山が趣味の方はいつまでも楽しく山登りができるように、護摩供を受けてみてはいかがでしょうか。足腰守というお守りも販売しています。

本堂には子ノ権現と十一面観音が本尊として安置されています。子の聖の没後、弟子の恵聖が子の聖を大権現として社を建立したことが子ノ権現の由来なのですが、どうして天台宗なのかというのは謎です。子の聖は出羽国湯殿山からやってきたので、バリバリの修験道だったと思います。最初は同じ出羽三山羽黒山の末として修験道を継承してきたそうです。宝永2年(1705年)に輪王寺宮の末寺となります。こちらはバリバリの天台宗です。明治元年(1868年)の明治維新によって、比叡山延暦寺の末寺となり、現在は天台宗の別格本山となっている。ということなのですが、この寺院、というか権現様は、他の寺院はほぼ関係ないような立ち位置ですよね。独自路線を歩んでいそうです。どこかの宗派に所属する必要があった(所属することが都合良かった)から、門戸の広い天台宗になったという感じではないかと思います。

それを裏付けるように、扁額には「日本一社」と書かれています。独自の道を歩んできて、これからも独自の道を歩んでいくのだと思います。そんな子ノ権現を天台宗が受け入れる際、別格本山という寺格を与えて迎えるレベルの寺院なのだと思います。写真( ↑ )の本堂内部の右側に少し見えますが、本堂に入って右側に赤い巨大なハイヒールが置かれています。何のために置いてあるのかわかりません。正面にはわらじがたくさん奉納されていました。

本堂の左側です。左側に奉納するわらじを引っ掛けるところがあります。二足のわらじのうち一足に願い事を記入してここに引っ掛け、もう一足は持ち帰ってお守りとするそうです。こちらの境内社秋葉社だそうです。

この足形の記念碑はドイツの芸術家ヨーゼフ・ボイスの足形だそうです。なぜここにそのようなものがあるかというと、謎です。説明文によりますと、足形とは・・・と、足形うんちくが書かれていますが、何故ここにあるのかはかわかりません。とりあえず、足形とは・・・と想いを寄せるのが正解のようです。

本堂左側には、美和観世音菩薩像があります。こちらは観音信仰を生きがいにしてきた姉妹がいらっしゃって、昭和63年お姉さまが亡くなられた際に、多くの方の幸福を願って寄進されたものだそうです。

こちらが子ノ権現の写真スポット、重量2トンの日本一の鉄の大わらじです。「でかっ」というのが印象です。わらじなので藁のような色をしていますが、鉄なのでカチカチです。隣りにあるのは夫婦下駄です。

本堂の右側で登山の団体さんがお昼ごはんを食べていました。やはり登山客が多いようです。最近ではロードバイクの聖地にもなっているようです。自転車の技術的進化もあるのでしょうけど、この急な山道を自転車で上ってくるなんて真似しようという気も湧きません。奥の院へ向かう階段の入口に閻魔堂がありました。ステレオタイプの閻魔像が目を見開いて座っています。

階段の中腹に地蔵菩薩のお堂がありました。奥の院があるエリアには「見晴らし処」があって、スカイツリーと同じ高さであるとか、スカイツリー横浜ランドマークタワー筑波山まで見えると看板に書かれていたのですが、あまり上がってく方がいません。

良き景色ですが、モヤって遠くに見えるのが何であるかはわかりません。やはり子ノ権現まで来たのなら、見晴らし処まで行かれることをオススメします。

このエリアには釈迦堂がありました。私は日頃お参りはしますが、何も個人的なお願いをしないというスタイルです。しかし、このときは自分のことではないのですが、お願いしたいことがあり、全ての堂宇にお願いしまくっていました。

鐘楼堂もあり、やはり山の寺社の基本通り、放置状態でした。子ノ権現までは山の中の登山道を歩いてきたのですが、ずっと人に出くわすことがなくて淋しいというか、怖い思いをしながら歩いていました。時々聞こえる鐘の音にかなり気持ちが救われていました。徐々に大きく聞こえてくるので、近づいているなと実感できますし、ぜひ皆さんもここへ来たらゴーンと鳴らしてください。その音に励まされて歩く人が山の中にいるはずです。

こちらは有名な「白い手」です。遠くから見ても違和感アリアリでした。近くに行くと想像以上に不気味でした。本堂内の赤いハイヒールとか、子ノ権現ってこういうの好きなんですかね。エンターテイメント心というか、人を喜ばせたり楽しませたりするのが好きなのかな。ちょっと一方的な気もしますが、信仰とうまく噛み合って、人々がたくさん訪れることを願います。

 

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