寺社探訪

寺社探訪とコラム

「家族葬というパワーワード」

私の記憶では、20年ほど前から「家族葬」という言葉が使われだしたと思います。おそらく最初は、ネット集客型のブローカー葬儀社が使い始めました。格安セットプランで葬儀業界の価格破壊を行ってシェアを獲得し、「ネット集客型ブローカー葬儀社」という、それまでには無かった新しい葬儀社のタイプを確立しました。葬儀業界では、この「価格破壊のセットプラン」と「ネット集客型ブローカー」のふたつが画期的なビジネスだと話題になり、社長は起業家として各方面から注目され称賛され、実際に葬儀業界に大きなうねりを巻き起こしていました。

しかしそのふたつの仕組みよりも、世の中の消費者には「家族葬」という言葉がヒットしました。家族葬の需要が大きくなり、葬儀業界は戸惑います。「家族葬ってなんだろう?」と問う暇もなく、家族葬の依頼が増えていきます。反応の良い葬儀社から順番に、この大きなニーズに応えるべく、家族葬プランを打ち立てます。今ではほとんどの葬儀社が家族葬を扱っていて、「家族葬専門」と銘打っている会社も多くあります。

 

しかし、家族葬とは一体何なのでしょう? わからないままに需要が爆発的に増えて、わからないままに供給が行われた感じです。以前姉から電話があり、旦那さん側の親族に不幸があり、家族葬で行うと言われたのだが、家族葬は誰までが出席して良いのか? 旦那は出席すべきか? 自分はどうか? という質問を受けた。同じように思った経験のある方もいらっしゃるのではないでしょうか?

まるで、家族葬の出席範囲についてきっちり定められているかのような質問ですが、当然そんな法律のようなものはありません。法律どころか、家族葬という葬儀について、広辞苑でも定義されてないし、ウィキペディアですら定義されていません。つまり家族葬は、ただの「コトバ」に過ぎず、中身は定義できないものなのです。ネット上で「家族葬とは…」と定義しているのは、ほとんどが葬儀社です。各葬儀社がそれぞれの勝手な解釈で説明していて、それは前述の姉や消費者が求める、広く世間全般に定義づけられた答えではないですよね。

 

家族葬がただの言葉なら、なぜこれほどまでに世の中に浸透し、多くの方が家族葬を望むのか? 私なりの考察ですが、そもそも世の中には葬儀に対する潜在的なニーズがあったのだと思います。「不満」と言っても良いかもしれません。景気低迷が続く社会においても、葬儀は逝去に伴い必ず行わなければならず、なのにその費用は莫大です。「どうにかもっと安価にできないのか?」というニーズ(不満)がありました。また、参列者の多くが義理で参列していて、会社の取引関係など、顔も知らない人まで参列するという葬儀を変えたいというニーズ(不満)もあったと思います。義理を重んじるのは日本人の美徳ですが、本当に故人を偲ぶ人だけに集まってほしいという気持ちもあります。そんなニーズに応え、不満を解消する手段が、家族葬という言葉に託されたのだと思います。違う言い方をすると、参列者を限定し費用を抑える方法は、義理を欠く行為でタブー視されるべきものですが、そこを「家族葬」というアットホームでハートフルな言葉でオブラートに包み込んだという感じです。

 

また、葬儀というのは歴史と伝統に培われてきたものですので、社会の変革が及ぶのがとても遅いのです。社会の変革の一番最後が葬儀業界と言っても過言ではありません。私はほぼ車通勤ですが、真夏に電車通勤すると、周囲の格好に驚きます。満員電車の中、ネクタイを締めているのも、ジャケットを着ているのも自分だけという状態です。残念ながら、クールビズは葬儀業界にはまだ訪れていません。そんな感じで、死語になりつつある社会の「核家族化」が、ようやく家族葬という言葉と共に、葬儀業界に及んできたのだとも思います。近所や親戚との関係性を断って、核家族化していく社会現象がやっと葬儀業界に及んで、家族葬という言葉がそのタブー感を緩和させ、加速度的に拡大していったのだと思います。

 

家族葬とは一体何なのか? ある葬儀社が作成した説明動画を見ると、家族葬では供花を出さない。家族葬では香典をいただかないので受付は要らないし、返礼品も要らない。家族葬では喪主の挨拶もない。と説明されています。私の経験に興味深い例があって、家族葬を執り行うことになったのですが、最初は家族10名+親戚10名程の参列という予定が、どんどん話が変わって、通夜当日には家族10名+親族30名+一般会葬者100名の参列予定となりました。もちろん、喪主、親族他多くの供花が飾られ、記帳所や受付が設置され、返礼品も用意されました。しかし、通夜の後、家族から「どうして家族葬なのに、お焼香が一人ずつじゃなかったのですか?」というクレームがありました。驚いたことに、140名が参列した葬儀でも、家族は家族葬をやっている意識だったのです。「家族葬のお焼香は一人ずつ」という謎ルールを置いておいても、家族葬の受け入れられ方の幅広さに驚きました。家族葬は、そもそも中身が定まっていない、ただの言葉でしかないので、どんな葬儀でも家族葬だと言い張れば、家族葬になってしまうという極端な例です。

この例は極端ですが、家族葬と言っても、実際に家族だけというのは少ないです。親族の一部も参列するので、正確には親族葬と呼ぶべきですが、家族葬という言葉が日本人の心を捉えてしまっているので、それも家族葬と呼んでいます。供花を出す方が多いですし、香典を受け取ることも多いです。返礼品も用意します。余談ですが、このような家族親族10名少々という葬儀が多くなると、返礼品会社や仕出し料理店などの葬儀関連会社が窮地に追い込まれます。料理7~8人前を冷蔵車で高速道路を使って届けて、配膳人を付けて追加にも対応するなんて、黒字になるのかなと思います。それでも続けながら打開策を練っていたところに、コロナ騒動が重なって一気に倒産や廃業、撤退が相次ぎました。

 

さてさて、私自身が家族葬について、経験しながら学んだことがあります。ひとつは、できる人とできない人がいるということです。家族葬ができない人ってどんな人かと言うと、生前に多すぎる方々と関わって仕事をしてきた人、先祖代々その土地に住んでいる一族の人、などです。葬儀は故人や家族の生き様が大きく影響します。社会や人と関わりまくって生きてきたのに、葬儀だけ家族のみでというのには無理が生じるのです。先述の例のように家族葬のつもりが数百人の会葬があったりします。そこを無理やり家族葬にして、会葬をシャットダウンしていたら、葬儀後に自宅や職場に数百人が弔問に訪れる事態になるかもしれません。その場合、弔問に来る日付や時間は弔問者の都合になるので、毎日朝から晩まで誰かがやってきて、ずっと弔問の相手をし続ける日々を送ることになるかもしれません。家族葬にしなければと悔やむ結果になってしまいます。とある実業家の方の葬儀で、家族葬で行う案内状を出したら、葬儀には参列しないから、せめて火葬炉の前で送らせてくれと言われ、日時と場所を教えたら、それが広まって火葬炉の前に100名以上の大集団が集結し、火葬場からクレームを食らったという話を聞いたことがあります。炉前で100名から次々と香典を手渡しされ、お別れどころではない惨事だったそうです。

また、家族葬の「家族」という部分にこだわらない方が良いと思います。そもそも定義のないものを、自分で定義して縛られてしまうことはありません。葬儀社側も家族葬プランと名付けていますが、家族葬が定義のない単なる言葉なので、家族葬プランも単なる言葉が付いているだけの実質「少人数葬儀プラン」なので、オプションでどんな形にも変えられます。個人や家族の生き様や絆の強弱に合わせて、参列していただく方、参列をお断りする方を決めたら良いと思います。その時、〇〇さんと仲が良かったから、□□さんにはお世話になったからと、参列して欲しい人を考えてしまいますが、大切なのはお断りをする人の方なのです。例えば以前その人の家の葬儀に自分の家族が参列していたりすると、その人に義理を欠かせることになります。丁寧に上手にお断りすることが大切です。事前に断るか、事後報告にするかも、ケースバイケースです。隣組自治会などの近隣社会の繋がりをないがしろにすると、怒りを買って今後暮らしにくくなるかもしれません。

 

まとめとして、家族葬にする理由としては、1つに費用の節約、もう1つに煩わしさからの開放があると思います。しかし前述の通り、家族葬にしたことで生じる煩わしさというものがありますから、よくよく考えて、どんな葬儀にしたいかをしっかり葬儀社に伝えることが大切です。家族葬にしたいという希望があっても、家族葬という言葉にこだわることも、縛られることもありません。思い描く葬儀の内容を伝えて、費用や説明を聞いて納得する葬儀を実現して、それを家族葬と呼べば良いと思います。

 

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