寺社探訪

寺社探訪とコラム

真言宗智山派 川崎大師

川崎大師 目次

名称・寺格

金剛山(こんごうざん) 金乗院(きんじょういん) 平間寺(へいげんじ) と称します。通称、川崎大師。真言宗智山派大本山です。

創建

大治3年(1128年)、元武士で漁師の平間兼乗が海中から網で引き上げた弘法大師像を祀る寺院を、高野山の尊賢上人が開山しました。

本尊

弘法大師

ご利益

厄除けが有名です。

みどころ

広い境内に様々な堂宇が建っています。三途の川の脱衣婆もご安置されています。

アクセス

川崎市川崎区大師町4-48

京浜急行大師線「川崎大師」徒歩8分

探訪レポート

日本は東京を中心とする大都市圏に様々なものが加速度的に集中していて、大都市圏(メガシティ)としては、東京(首都圏)が世界最大なのだそうです。それを物語るように、日本の初詣の人出は、1位が明治神宮(東京都)で、2位が成田山新勝寺(千葉県)で、3位が川崎大師(神奈川県)です。川崎大師の表参道は不思議な形で、駅から表参道が東に向かい、折り返して一本隣の仲見世通りを戻ってくるような構造になっています。表参道には久寿餅(くずもち)の大きなお店があります。

折り返して仲見世通りに入ると、飴を切る包丁の音が絶え間なく鳴り響いています。今となってはパフォーマンス要素が大きいですが、昔は飴を買わなきゃ川崎大師に行ってきたと言えない程の名物だったと、勝手に想像しています。ほかに、久寿餅や、だるま、まんじゅう、せんべい、蕎麦など、門前町特有のお店が並んでいます。

川崎大師は平間寺と言って、「ひらまくん」という微妙なマスコットキャラがいます。お大師様なので真言宗の寺院で、真言宗智山派の3つある大本山のひとつとなっており、関東有数の大寺院です。仲見世通りの突き当り、巨大な山門が参拝客を迎えます。

浅草寺と比べると小ぶりですが、山門に提灯が下がっています。川崎大師の創建にまつわるお話も浅草寺とよく似ています。平間兼乗という武士が生地である尾張を無実の罪で追われてしまい、諸国放浪の後にこの川崎で漁師をして暮らします。ある日、厄年だった兼乗の夢枕に高僧が立って、「唐で海に流した自身の像が、縁のある人が現れず、未だに海の中にある。これを引き上げて供養して、衆生に功徳を分け与えたら、災い転じて福となす」と告げられた。兼乗が海に出ると光り輝く場所があり、そこに網を投じると、弘法大師空海の像が引き上げられたという逸話です。漁師が網で引き上げるというのが浅草寺とよく似ています。

京都の東寺の四天王像を模した像が山門に鎮座されています。東寺は高野山金剛峯寺とどちらが本寺かと論争される程、真言宗の根幹をなす寺院です。是非一度は訪れたいと思っています。そんな山門を通って境内に入ると、広いスペースの奥に本堂が見えます。色々な堂宇がありますので、訪れながら本堂へ向かいます。

こちらは手水舎ですが、まだ使用できないようでした。昭和33年に水器が奉納され、昭和40年に手水舎が完成したそうです。

手水舎の裏側。お堂がふたつ並んでいます。右側の大きな方が太子堂です。大師と太子で紛らわしいですが、仏教的に太子と言えば、聖徳太子のことです。聖徳太子がいたから仏教がこの国に広まった訳で、超人的な伝説と併せ、信仰の対象とされています。左のお堂は清瀧権現堂です。清瀧権現は、八大龍王の一族で、密教の守護神とされる女神です。真言宗醍醐派の本山醍醐寺から全国に勧請されたと伝えられています。

奇跡の銀杏だそうです。先の大戦による空襲で幹の大半を失いつつも復活したという樹勢にあやかって、健康長寿をご祈念すると良いそうです。私は消化器系に病気があるので、ボロボロな胃腸も復活するようにお祈りしました。

経蔵の中が常時見学できるのは珍しいと思いますが、見学したところでよくわかりません。中国最後の木版大蔵経「乾隆版大蔵経」7240冊が収蔵されているそうです。経蔵の本尊は説法釈迦如来で、その如来像の前に巨大な五鈷杵があって、そこに金箔を奉納するとご利益が得られるそうです。あと、この経蔵の天井絵はみごとなので、訪れたらぜひ拝観いただきたいです。

常香炉には、休日ということもあり、絶え間なく人が集まっていました。私はいつも思うのですが、これ、海外の人が見たら不思議な作法に見えるでしょうね。線香をお供えするというシンプルな行為から、その煙を浴びる意義が生み出されて、今ではそちらがメインになっています。諸説あってわかりませんが、何が正しいとかどれが間違いとか語るのは愚行で、信じるものが救われるという精神で、どんどん煙を浴びていきましょう。

本堂内もすごく広くて大きいです。現在の本堂は昭和39年に建てられたもので、本尊の弘法大師像は秘仏とされていて、10年に1度御開帳されます。次の御開帳は2024年の予定です。山門の写真( ↑ )に「令和6年 御本尊 厄除弘法大師 御開帳奉修」という立て札が建っています。本堂の扁額には「厄除 遍照殿」と書かれています。遍照というのは、空海の師匠である唐の恵果阿闍梨が、空海に送った名前です。最近の私のお参りの方法は、列に並んで最前列に来たらお賽銭を投げ入れて、なるべく早くその場を離れます。少し離れた人がいない場所で短くご祈念をして、堂内をじっくり見学します。本尊や脇侍、荘厳の様子や天井絵など、本堂内は結構見るべきものがたくさんあります。川崎大師の本堂には脇侍として、不動明王愛染明王がご安置されています。どちらも炎を背にした憤怒の表情で、真言宗らしい本堂の様子が伺えます。本堂内では護摩行が勤修されていて、各種祈願を受け付けています。

本堂を出て左に進むと、中書院と茶筅塚があります。光聚庵と心月庵という2つの茶室があるそうです。寺院と茶道はかけ離れているようで密接な関係があり、境内に茶室を持つ寺院は結構ありますし、献茶会や茶道の儀礼を奉納するような機会が年に何度もあります。川崎大師でも大きな行事を組んで茶道と仏教の融合を演出しています。

中書院の横に千本鳥居と稲荷堂があります。福徳稲荷と書かれています。この稲荷堂は、ほとんどの堂宇が焼け落ちた昭和20年の大空襲を耐え抜いたお堂だそうです。

稲荷堂の横に不動堂があります。こちらではもちろん不動明王をご安置していますが、この不動明王は同じく真言宗智山派大本山である成田山新勝寺から勧請したお不動様なのだそうです。階段に禁止マークの立て札があったので、撮影禁止かと思ったら、飲食禁止でした。お不動様は憤怒の形相でとても怖い仏様ですが、不動堂の階段で飲食する人もいるんですね。

さてさて、ここはぜひ訪れたいと楽しみにしていた場所です。「しょうづかの婆さん」という美をつかさどる仏様と書かれています。この婆さんの正体は三途の川のほとりにいる「脱衣婆」です。「人は死んだらどうなるの?」というのが、仏教のみならず、あらゆる宗教の始まりだと私は思うのですが、仏教においては人は死んだら三途の川を、此岸から彼岸へ渡るとされています。その時に、衣服を剥ぎ取って枝にかけ、そのしなり具合で生前の罪の重さをはかるのが脱衣婆です。仏教では、人が死ぬと最初に会うのがこの脱衣婆で、強制的に服を脱がされてしまうのです。そもそもインドの仏教には存在がなく、中国と日本で創られた存在とされています。脱衣婆の別名が葬頭河婆(そうづかば)と言い、それが訛ってしょうづかばばあと言われるようになったそうです。異様な存在なので、信仰の対象にまでなっていて、稀に奪衣婆のお堂が建てられている寺院があります。本来は鬼族なのですが、川崎大師では美の象徴だそうで、像の顔を見ると、口紅が引かれています。訪れた方は注目してみてください。

こちらは鐘楼です。不動堂の正面からまっすぐ参道を進むと不動門に当たります。本堂→山門と平行に、不動堂→不動門が並んでいます。昭和20年の戦災により境内堂宇が消失した後、昭和23年にこの不動門は福島県にある旧家から縁あってこの川崎大師に移築されたそうです。その時同時に移築されたのがこちらの鐘楼です。除夜の鐘の他、東日本大震災の追悼、広島・長崎被爆追悼、終戦記念日などに打ち鳴らされるそうです。

つるの池とやすらぎ橋というステレオタイプな名前が付いていますが、やはり池とか橋は気持ちがスッとします。橋を渡ると金ピカの降魔成道釈迦如来像があります。開創850年記念として昭和52年に造られたもので、胎内に仏舎利が収められているというお話です。その金ピカの釈迦如来像を囲むように百観音の壁が半円形に建っています。

最初は四国八十八ヶ所お砂踏み場なのかなと思いましたが、そうではなくて、日本百観音霊場のお砂踏み参拝所とのことです。西国三十三観音、坂東三十三観音秩父三十四観音、合わせて百観音だそうです。実際に巡拝して拝受したお砂と、それぞれの観音様のレリーフが奉納されています。レリーフに触れながら歩いていて拝観し、最後に壁の裏側にある聖観音像の前の安らぎの鐘を鳴らして、聖観音像にお参りをする、というのが正しきお参りの方法だそうです。開創890年の記念事業として、平成29年に建立された新しいもので、とても奇麗でスタイリッシュです。

日本の仏教建築には珍しいデザインの薬師堂です。開創880年の記念事業として、平成20年に建てられました。どことなくエキゾチックな風合いで、非常に美しい建物です。こちらには薬師如来十二神将がご安置されています。病気になって1年少々、定期的に病院に通いながら過ごしているので、お薬師様と聞くとどうも神妙になってしまいます。しっかりご祈念させていただきました。中には薬師如来の分身である「なで薬師」というお像があって、撫でることによって病気平癒や健康維持をご祈願できるようになっています。撫で薬師様は人々に撫でられてツヤツヤのピカピカになっています。この薬師殿では、写経や写仏もできるそうです。

こちらは遍路大師像です。弘法大師誕生1200年の記念事業として、昭和48年に造られました。足元にぶら下がっているわらじに水をかけることがお参りの方法だそうです。その前にわらじがたくさんお供えされています。この大師像を取り囲むように、四国八十八ヶ所お砂踏み霊場となっています。

こちらも百観音と同じく、実際に四国八十八ヶ所巡礼の際に拝受した砂が、それぞれの石碑の足元に埋められています。柵のようになっていて、ここだけ結界のように外の喧騒から隔離される感覚がします。自然と心が鎮まって、ゆっくりと落ち着いた気持ちで歩いて渡りました。なかなか素晴らしい。

珍しい八角形の五重塔です。昭和59年の大開帳と弘法大師1150年遠忌を記念して建てられましました。川崎大師のほぼ中央に位置していて、とても目立ちます。他の堂宇とのバランスと真言宗らしさを追求したそうです。毎月1日と縁日にお参りできるとのこと。

 

祈りと平和の像です。こちらも昭和59年弘法大師の1150年遠忌を記念して建てられました。富士山に降臨した観音菩薩をモチーフにしたという一面四臂の女神が中央に立っていて、祈りを表現しているそうです。両側の鹿野苑で楽器を奏でる天女が平和を表現しているそうです。仏教の像は寸胴で直立不動か座っているものが多いからでしょうか。スリムで動きを感じる像は仏教色が薄い感じを受けます。

境内の堂宇は戦後に建てられたものばかりで、歴史を感じるものは少なかったのですが、川崎大師平間寺の歴史そのものは900年を迎えようとする長さがあります。大名や武家が建てた寺院ではなく、海に流された仏像を安置して信仰するという始まりで、民間信仰の度合いが非常に強い寺院です。境内の堂宇は戦争で破壊されましたが、六字名号塔という1628年建立の石碑が残っています。熱心に大師を信仰する江戸の文盲の商人が、川崎大師へ参拝した帰りに六郷橋で拾った筆を手に取ると、「南無阿弥陀仏」とスラスラ書けたので、あまりの嬉しさに石碑に刻んで奉納したそうです。こんな風に庶民と川崎大師の間に絆があって、それが束になっていると考えると、900年どころか、永久にいつまでも続いて行くのでしょうね。

 

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