寺社探訪

寺社探訪とコラム

奥氷川神社

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氷川神社 目次

名称・社格

氷川神社と称します。旧社格は村社です。

創建

1世紀に日本武尊が東征の際に祀った社が起源となっています。貞観2年(860年)に无邪志国造の出雲族が奥氷川大明神として再興しました。

御祭神

素戔嗚命(すさのおのみこと) 奇稲田姫命(くしなだひめのみこと) 建御名方命(たけみなかたのみこと)

ご神徳

厄除け・良縁祈願 など

みどころ

多摩川と日原川が合流する氷川渓谷と自然豊かな環境の中に鎮座する、氷川信仰の中心となる武蔵三氷川の奥社にあたる古社。

アクセス

東京都西多摩郡奥多摩町氷川185

JR青梅線奥多摩駅 徒歩すぐ

探訪レポート

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氷川神社は全国にあるイメージですが、実は関東に集中しています。これは、氷川信仰の歴史の始まりが関東地方であり、まさにこの奥氷川神社あたりも氷川信仰にまつわる伝説の地となっています。JR青梅線の終着駅「奥多摩駅」から徒歩圏内にあります。過疎地の神社あるあるの通り、境内に地域のコミュニティセンターがあります。最初に訪れた時間では、ちょうど地域の方々が境内でゲートボールをしていました。

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こちらは手水舎です。奥氷川神社は創建が1世紀と超老舗です。日本武尊が東征の際に、素戔嗚命大己貴命を祀った社が起源とされています。ヤマト王権が支配していた古代の日本では、このあたりは无邪志(むさし)国と呼ばれていて、无邪志国造が支配していました。无邪志国造は出雲族の分岐氏族で、簡単に言えば、出雲の人たちがやってきて无邪志国を支配したという構図です。日本武尊が祀った社は、貞観2年(860年)に无邪志国造が奥氷川大明神として再興します。氷川という名前も、出雲国にある簸川(ひかわ)が由来と言われています。

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神明造の社殿の前の広場はゲートボールにちょうどよいサイズになっています。奥氷川神社は、氷川神社の総社である大宮氷川神社と所沢にある中氷川神社と共に、「武蔵三氷川」と呼ばれています。この三社は直線状に並んでいるとして、大宮ー中宮ー奥宮という構図になっているという言い伝えがあります。

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実際に訪れてみて、最初の印象は、こじんまりしているなというものです。氷川信仰の根源的な聖地というには、小さい神社に思えました。出雲国からやってきた无邪志国造は多摩川下流に拠点を置き、上流の奥多摩愛宕山の地形を、祖国出雲で祖神を祀る日御碕神社の神岳に見立てて、この地に祖神を祀り祖国の氷川神を勧請して奥氷川神社を創建し、その後、无邪志国と知々夫(ちちぶ秩父)国が統合する際に中氷川神社を創建し奥氷川神社の氷川神を勧請し、さらに本社に当たる氷川神社を創建し氷川神を勧請したという言い伝えがあります。つまり、この奥氷川神社が氷川信仰の源であるという伝説もあります。
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氷川神社の御祭神は、素戔嗚命奇稲田姫命建御名方命という組み合わせです。素戔嗚命奇稲田姫命は夫婦神なので、セットになっていることが多く、他に大己貴命大国主命やその妻子という素戔嗚命奇稲田姫命の子孫たちが組み合わされることが多いです。建御名方命大国主命の子ですから、典型的な氷川信仰という感じです。ところが、実は建御名方命は始めは相殿に祀られていて、建御名方命主祭神として信仰する諏訪信仰が取り入れられ、「諏訪大明神」と呼ばれていたそうです。

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こちらは氷川三本杉と称し、根本近くから三本に別れている珍しい杉の木です。都内最大の杉の木で、東京都の天然記念物に指定されています。青梅街道沿いから見えて、すごく目立つ場所に立っているので、神社よりも先に目が行きます。

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本殿を横から見た写真です。立派な木の間を縫うように建っています。さて、氷川信仰と関係があるとされる謎の神様「アラハバキ」をご存知でしょうか? 非常に興味深いのですが、謎が多すぎて理解が難しい神様で、当ブログのような学術要素の少ないブログでどこまで迫れるかわかりませんが、ロマンを感じるので記載してみたいと思います。アラハバキという神は、日本神話にも登場しない、日本最古層の神と言われています。

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こちらの境内社天満宮菅原道真を祀っています。さてさて、この氷川神社から橋を渡った対岸に愛宕山があります。この山の麓は登計と呼ばれる地域で、縄文時代の住居跡があります。この登計にアラハバキ神社があったという記録があります。これが現在の奥氷川神社の元の姿だったのでは? という話なのです。縄文時代はこんな風に、山や岩などの自然物を御神体として、アラハバキの神を祀る神社がいくつもあったようです。それがヤマト朝廷が勢力拡大すると共に、日本神話に出てくる神々に取って代わられてしまったのです。取って代わられたアラハバキの神は、逆に客人(まろうど:門客)神として祀られている場合が多いそうです。早くも、何を書いているのかわからなくなってきましたね。

つまり、元々は登計の民にとって氏神アラハバキの神でした。そこへ出雲から无邪志国造の一族がやってきて素戔嗚命を主神として祀る氷川神社を作り、アラハバキの神は客人神になり、主客逆転現象が起こってしまいました。明治時代に入って、登計の氏神だったアラハバキ神社は、愛宕神社に合祀されてしまいます。

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こちらには三社、境内社がありますね。ひとつは神明社、他はわかりません。さてさてさて、全国各地にあったアラハバキの神は、歴史の中で客人神にされてしまい、その姿が隠されてしまいました。現代では非常に掴みにくい謎多き神として、伝説のようになっています。製鉄の神だという説、足や下半身の神だという説、外国渡来の神や宇宙人という説まであります。例えば、この愛宕山近辺の土に砂鉄が含まれているなど、どの説もそれなりに信憑性のある部分が含まれていて、捨てきれない説となっています。日本神話に関係のない、古来から土着の神として祀られたアラハバキは、本当はどこからやってきて、何を司り、どんな神で、人々はどんな風に信仰を寄せていたのか、現代の奥氷川神社を眺めていても何もわかりません。またどこかでアラハバキの背中がうっすら見える神社に巡り会えたら良いなと思いながら、奥氷川神社の境内でゲートボールを楽しむ人たちを眺めるのでした。

 

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