寺社探訪

寺社探訪とコラム

「多摩川左岸 百所巡礼6」

多摩川左岸巡礼37番:拝島神明神社

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普明寺のすぐ近くに、神明神社がありました。何もない広場のような境内ですが、きれいに整えられています。鳥居をくぐると、お参りから帰る方とすれ違い、「こんにちは」と挨拶を交わしました。神明神社ですから、お祀りしているのは天照大御神です。失礼な言い方ですが、この場所にこの様にある神社は、専任で勤めている神職さんがおらず、地域の方々で維持管理していることが多くて、管理が行き届かなかったりします。しかしこの神明神社は、鳥居周辺からきれいに整えられていますし、何より社殿が正当な神明造で、拝殿と本社が独立しています。平成21年に地元有志の奉賛によって建設されたそうです。やるならとことんという精神だったのでしょう。

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拝殿に入ると、神明神社のパンフレットが置いていました。神社本庁が発行しているものではなく、この神明神社独自で製作したものです。やはり、ちゃんとしている。この神社を支えている方々の意気込みが感じられます。パンフレットの御由緒によると、この神社の創始は正平年間(1346-1370年)なので南北朝時代室町幕府足利尊氏の時代です。新田義貞(1338年没)の家臣の三津田源之進という人が御神体を奉じて拝島に留まり祭祀していたが、後に小祠を造影し、文禄年間(1593-1596年)に改築したとの口伝がある。万治元年(1658年)久保庄右衛門が再建し、宝暦二年(1752年)まで数代に渡って奉仕した。大正6年に拝島の大火によって類焼するが大正7年に再建。その際に末社だった稲荷社と八雲社を合祀した。とあります。

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こちらは石臼塚です。かつては各家庭に一台という感覚で、庶民の生活になくてはならないものでしたが、食べ物を粗末にすることと同じ様に、石臼は粗末にしてはならず、大切にされていた感謝の気持ちを込めて石臼塚を建立しているとのこと。この他、縁結び、夫婦和合、子孫繁栄、安産などの御神徳を願う夫婦石が安置されています。拝殿の中から本殿が見えますので、有り難い神様にお参りしている気分になります。

多摩川左岸巡礼38番:曹洞宗 龍津寺

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神明神社から奥多摩街道へ戻り少し歩いていくと山門があります。創建は天文年間(1532-1555年)だそうです。現在の拝島第1小学校は明治時代に、知遠学舎という名で拝島村で最初の学校だったそうです。当時の学校は寺の境内に作られることが多く、知遠学舎は龍津寺境内にありました。

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境内も墓地もとても広いお寺でした。禅宗らしく派手ではなく慎ましい印象を受けました。私は変なところからこの寺に向かってしまったみたいで、墓地の中をぐるぐる回ってしまいましたが、本当の見どころはこの寺の下を流れる川(用水)のようです。そこは多摩川から引いた用水や湧き水も出ていて豊富な水が流れる散歩道のようになっているところでした。

多摩川左岸巡礼39番:拝島 稲荷社 疣地蔵

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拝島のお参りエリアから多摩川沿いへ戻ろうと路地を入ったところで遭遇しました。右が稲荷社で左が疣地蔵です。疣(いぼ)地蔵の祠は割と新しく、由緒書きが貼ってありました。お花やお供え物もされていて、大切に守られているお地蔵様だとわかります。縁起によりますと、このお地蔵様は江戸時代の罪人の墓だそうです。少し面白い願掛けの方法で、荒縄でお地蔵様を縛って、「疣(病)を治してくれたら縄を解く」と願掛けするそうです。石碑には古い縄が二重に巻きつけられていました。

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多摩川沿いの「たまロード50キロ」に戻ってきました。見えているのは昭和用水堰です。下流の日野用水堰のところで、多摩川両岸の昭島側と日野側で争いがあったということを書きましたが、取水量を確保するために結局昭島側はこの場所に堰を作ったという訳です。ここは多摩川と秋川の合流地点なので、両方の水を確保できるので良いですね。

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福生市に入りました。福生市多摩川の河川敷の利用に積極的と言いますが、公園として整備したり運動場を作ったりバーベキュー場を作ったりと、かなりの情熱を多摩川の河川敷に注いでいます。整備されたきれいな公園とテニスコートを抜けて、睦橋の手前に丸い広場があります。

多摩川左岸巡礼40番:福生市 レンガの広場 馬頭観世音

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丸い広場に馬頭観音の石碑がありました。電車などなかった時代、人々は馬や牛に人や荷物を運んでもらっていました。中には使役中に気の毒な死に方をさせたり、長年活躍して家族のように大切にした馬や牛もいたことでしょう。私は奥多摩へ向かっていますが、おそらくこの先は旅の相方だった馬を供養する馬頭観音を、多く見かけることになるのではないかなと思います。

多摩川左岸巡礼41番:臨済宗建長寺派 千手院

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龍津寺に続いて禅宗の寺院です。入口の佇まいから禅を感じますね。創建は元和元年(1615年)とのことです。その名の通り、ご本尊は千手観音菩薩像です。多摩川が近くて高台になっているので、境内から見ることができます。

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山号である大慈山の扁額を掲げています。堂宇は少ないですが、整然としていてきれいな境内です。開山の祖である夷春伯禅師坐像と達磨大師坐像が福生市文化財に指定されています。

多摩川左岸巡礼42番:福生市熊川 庚申塔

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千手院の前の通りを昭島方面に戻る感じで進むと、四つ辻に差し掛かります。青面金剛と書かれている石碑が、その四辻に建っています。この住宅の区画に建ってますが塀の外側になっています。こういう場合ってどういう権利状態になっているんでしょうね。花を供えるというか、プランターごと置かれています。

多摩川左岸巡礼43番:南稲荷神社

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青面金剛の四つ辻を曲がって進んでいくと、赤い稲荷神社の鳥居が見えます。福生市の天然記念物に指定されている、すごく大きな御神木が中央にあります。公園と一体化していて遊具が境内にあります。洒落た橋を渡って本殿に向かう仕組みになっています。

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この神社の境内に蔵が建っているのですが、膳椀蔵と言って、冠婚葬祭用の膳椀が納められています。冠婚葬祭を個人宅で行っていた時代には、たくさんのお膳を用意する必要があり、それらの食器を個人で持つことは難しいので、共同で所有するという風習がありました。そうして共同で使っていたお膳用の茶碗類が今でも残っているんだそうです。現在では葬儀社や市営区営の斎場がありますし、振る舞う料理を自分たちで準備せずに仕出し屋さんを利用します。私が葬儀の仕事をし始めた二十数年前は、一部の地域の地主さんなどでは、まだ近所の女性方が集まって天ぷら煮物けんちん汁を作る習慣が残っていましたが、現在ではそんな風習も姿を消してしまいました。

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こちらは清酒多満自慢」でおなじみの石川酒造さんです。南稲荷神社の隣りにあります。私が生まれ育った神戸の灘も、日本酒の蔵元が集まっている地域ですが、多摩西部もいくつかの有名な蔵元がありますね。私は元々飲めない上にDrストップでお酒に縁がないのですが、漆喰と板の壁が古き良き伝統を担う蔵元って感じでいいですね。

多摩川左岸巡礼44番:真言宗豊山派 真福寺

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鉄の扉が閉まっていたので、外から一礼だけのお参りでした。真福寺はもともとこの地よりかなり離れていた上恩方村(八王子市上恩方町)に、僧、秀覺によって創建されました。北条氏照の義理父の入道、大石道俊の尊信する不動尊を安置していたとのことですから、戦国時代ですね。小田原北条家の滅亡に伴い、真福寺も焼失したそうですが、現在地の地頭であった澤田氏の援助を受けて、慶長14年(1609年)に再建されたそうです。門の右側にお地蔵様と庚申塔が建っています。覗いてみた感じ、コンクリート造りのよくある感じの本堂でした。

多摩川左岸巡礼45番:八雲神社

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真福寺の隣りにあるので、無関係ではないと思われる神社です。このお社の中には、八雲神社のお社と、三社宮が祀られていて、三社宮はそれぞれ、稲荷神社、熊野神社神明社と書かれているそうです。この稲荷神社と熊野神社は、そもそも真福寺境内社であったという伝記があるそうです。

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海から50kmに達しました。JR五日市線の鉄橋の手前です。

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芝生がきれいに刈られていて、ここは多摩川中央公園と名付けられていて、植木職人さんたちが花壇の手入れをしていました。福生市は本当に河川敷の利用に力を入れています。職人さんたちが作業中だったので遠くからですが、写真( ↑ )の中央あたりに、牛浜の渡し跡の石碑があります。

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かつて渡し場だった所には、今は橋がかかっています。こちらは永田橋ですが、ここには福生の渡し場がありました。福生の渡しは、昭和36年まで存続していた渡しです。ここまで見てきた橋と比べると、長田橋は河川敷が狭く、若干短くなって橋桁が高くなっている感じがします。それでもまだまだ、多摩川の風景が大きく変わったというほどではないですね。

多摩川左岸巡礼46番:堰上明神社

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こちらは多摩川沿いにあります、堰上明神社です。このあたりは福生の田畑へ多摩川の水を引くために堰を作ったり取水口を作ったりと、何度もトライした歴史があるようです。うまく引けたり失敗したりした時代があって、結局は羽村から取水した玉川上水もこのあたりから取水しようとした経歴があるそうです。

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「田用水改修記念」と書かれた石碑が境内の社の横に建っています。境内には社と石碑だけで特に何もありませんが、人の手で定期的に整備されているようです。荒れた感じは見受けられませんでした。

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堰上明神社の前の道を真っすぐ歩いていくと、また清酒の蔵元に差し掛かります。この木と漆喰の壁が正統派の蔵元だと物語っていますね。こちらは「嘉泉」でおなじみの田村酒造さんです。

多摩川左岸巡礼47番:臨済宗建長寺派 長徳寺

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田村酒造さんの対面にあるのが、臨済宗建長寺派の長徳寺です。堂宇のひとつひとつがすごく大きく、境内も墓地も広くてすごく立派なお寺です。寺伝によりますと、長徳年間(995-999年)の創建と1000年以上の歴史を持つとのことです。臨済宗がまだ日本に伝わっていない頃なので、違う宗派だったのでしょう。他の文献では寛政元年(1461年)の創建と書かれています。何を持って創建とするかは様々ですから、わからないですね。境内はあまりにだだっ広くて、歩いてみたが落ち着かないと言いますか、所在ない感じになってしまいます。ただ、お寺的には参拝・見学はウエルカムとのことなので、気軽に拝観することができます。

 

多摩川左岸巡礼48番:福生観音堂

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長徳寺と田村酒造さんの前の道を真っすぐ進み、宮本橋を通って玉川上水を渡ります。渡ったところにあるのがこの観音堂です。こちらは元々真言宗宝蔵院という寺院だったそうです。現在はこのように観音堂だけがぽつんと置かれています。このように過去に存在した寺院が、現在無住職状態でお堂だけになっているというのは、そんなに珍しくはありません。そうなる経緯は様々で、この観音堂は住職だった方が、明治維新の世情を見て還俗し、神職に転身したそうです。その神職さんの名字を取って宮本橋となったそうです。

多摩川左岸巡礼49番:加美末廣稲荷大明神

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観音堂から奥多摩街道を少し進んだら、住宅と住宅の間にポコっと加美末廣稲荷大明神が現れます。由緒などは全くわかりませんが、おそらく地元の方によって奉納された鳥居やのぼり旗が参道に建てられています。

多摩川左岸巡礼50番:金毘羅大権現

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加美末廣稲荷大明神を出て、奥多摩街道を少し進み、新堀橋を渡って玉川上水を超えるとすぐに金毘羅大権現の鳥居が見えました。祠は階段を上がった高台の上に鎮座されています。祠の中の御神体は石碑でした。金毘羅大権現神仏習合の神ですが、香川県金刀比羅宮が総本社です。海運など海の仕事に御神徳があり、全国各地から金毘羅参りが盛んに行われ、金刀比羅宮金比羅大権現も全国へ勧請されました。比較的整備をしてから年月が経っていないと思います。鳥居も祠も階段もきれいでした。

多摩川左岸巡礼51番:真言宗醍醐派 永昌院

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金毘羅大権現からまた新堀橋を渡って奥多摩街道に戻り、少し進んだら真言宗醍醐派の永昌院があります。境内はそれほど広くなく細長い境内に、それほど新しくもない堂宇が色々とあります。真言宗醍醐派修験道の要素が濃いので、この永昌院では、年間行事として火渡りの儀式をしているそうです。こちらの境内は住職の家の横を入っていくような感じで、ちょっと気兼ねしてしまいます。一応写真( ↑ )の細長い境内を奥に進むと本堂があって、お参りできます。写真を撮る根性がなく、ササッと奥まで進み、そそくさとお参りし、スタスタと退散しました。余計に怪しい感じになっていると思いつつ、気にしだすとどんどん気になるの法則でした。

多摩川左岸巡礼52番:中根大権現

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さて、羽村市に入りました。小さなお社がいくつかあって訪問してみましたが、どうにも写真に収めにくい感じでした。というのも、お社が建っているのが、個人宅の庭のような場所で、そこを写真に撮ると、他人の家の敷地の中を撮影しているのと同じ感じです。いくつか撮った写真もあるのですが、公開するのは気が引けます。という訳で中根権現社の石碑だけ掲載させていただきます。この細い通路を入っていくと、個人宅の庭のような場所に祠がありました。塀で仕切られていればいいのですが、どうにもお参りしにくい。

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こちらは羽村堰下橋です。歩行者専用の橋です。この先に羽村取水所園地休憩所という緑地公園があるのですが、大田区大師橋から続いた「たまリバー50km」のゴール地点になります。いよいよ終点に到達ということで、なんとなく感慨深い気持になります。

 

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羽村の取水堰は何段階かになっている様子で、どこからどこまでがどんなふうに機能しているのかよくわからない感じです。川底に構造物が見え隠れしています。公園の中には玉川上水を造った玉川兄弟の銅像が建っていますが、何度も失敗して苦労の末に玉川上水を完成させた兄弟が取るポーズをしています。

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現在の堰はコンクリートで造られていますが、以前はこのように竹籠を編んで石を詰めたものを積み上げて作っていました。これを牛枠と呼ぶそうで、この公園内に展示されています。

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羽村取水堰です。水門付きの堰でかなり立派です。ここから玉川上水へ水が引かれているのですが、玉川上水羽村から四谷(現新宿区)まで引かれ、1653年に完成しています。太宰治が入水自殺したくらいしか知識のない玉川上水ですが、現在でも都心のそこかしこに跡形を辿ることができるそうです。

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こちらが玉川上水の出発点。スタート地点なので、勢いよく水が流れ出しています。羽田を出発してから50km以上歩いてきたところにあったのは、流れる水の音と鳥の鳴き声がこだまする、緑の豊かな場所でした。住宅と一体化したお祈りポイントに、訪問しあぐねている状態ですが、これも多摩川を遡上する中での変化の1つとして受け止めます。このあたりでは、こんな感じだったと・・・。さて、この先はどうなるでしょう?

 

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