寺社探訪

寺社探訪とコラム

「多摩川左岸 百所巡礼3」

大田区田園調布を過ぎ、世田谷区野毛に入りました。河川敷の風景としてはそんなに大きな変化はありません。しかし、多摩川沿いで野毛と言えば、私含め、キングオブスポーツが好きな方には、聖地の存在する場所です。巡礼なのにこの聖地をパスしてもいいのかとも思いましたが、その聖地はかつては神の居住地だった場所。その神は今、最後の闘う魂を燃やしています。私は穢れすぎていて、近づくことができませんでした。

多摩川左岸巡礼18番:真言宗智山派 善養寺

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丸子川沿いに派手な橋を渡って向かいます。何の予備知識もなく、なんとなく立ち寄った私は、ここで魂を抜かれてしまいます。入口はなんだか、大きな石垣がそびえて、鬼ヶ島の要塞のような雰囲気です。

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これは……

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いったい……

南米の遺跡から発掘してきたような巨大な像たちが寺の入口に集結しています。日本のものというよりも、もっと大陸寄りのもの、朝鮮半島や中国、もしかしたらガンダーラやインドまで遡るような様式の像があり、どれもかなりの大きさで、度肝を抜かれます。巨石像群の奥に赤い山門が見えます。

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こちらが大師堂です。相変わらず珍しい像が珍しい感じで置かれています。圧倒されて申し遅れましたが、こちらは真言宗智山派に属する善養寺です。元は深沢村にあり、祐栄阿闍梨が江戸時代慶安年間(1648-1651年)にこの地に移転させました。総本山智積院の末寺という記録と、等々力の万願寺の末寺という記録があるそうです。すぐ近くにある六所神社と関係が深く、六所神社の神輿を安置する神輿堂がかつて境内にあったり、六所神社の祭礼の神輿の立寄り所になっていたりするそうです。

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こちらが本堂です。奈良の唐招提寺を模した建築だそうです。ん~、確かに唐招提寺を模して建て始めたのだと思います。ですが、善養寺アレンジがキツすぎます。像のインパクトが強いです。ちなみにこの奇妙な像は、それぞれちゃんとしたものなので、調べてみるのも良いと思います。

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こちらはかなり新しい像だと思います。フルカラーで鎮座されている大日尊です。なんと申しますか、唐突なんですよね。私の経験では、このように境内の造作に一生懸命になる住職は一定割合存在します。池を造ったり滝を造ったり、仏教絵画を飾りまくったり、人それぞれ拘りがあって、見ていると面白いものです。この善養寺の檀家さんたちも面白いと思います。「あれ、なんか変わった? また住職がなんか置いてるぞ」という感じで像が増えていくのだと思います。

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鐘楼ですが、鐘楼そのものもきれいで立派ですが、周囲のモノが存在感強すぎます。アイヌとか書いてますね……

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そんな中でもこちらのカヤの木は、東京都の天然記念物に指定されています。祐栄阿闍梨が京都の智積院に修行に出て、戻ると善養寺は荒れ果てていました。祐栄阿闍梨は移転先を考えた時、この大きなカヤの木が思い浮かんだそうです。そうしてここに善養寺が移転することとなったそうです。

多摩川左岸巡礼19番:野毛六所神社

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善養寺に圧倒され、六所神社はこの1枚しか写真に残していませんでした。善養寺の裏側辺りにあります。こちらは鳥居をくぐって境内に入ったところ。右に手水舎、正面の奥に本殿その左側に境内社の水神社の鳥居、さらに左に神楽殿が見えます。旧社格は村社で、明治時代に同じ村にあった神社を複数合祀しています。

この六所神社は、江戸時代元和年間(1615-1624年)に創建されています。多摩川の大洪水で祠が流れ着いたそうです。すると、これは府中の方から流れてきたので、六所宮の御神体だということになり、「六所明神」として村の鎮守のためにお祀りしたということです。多摩川は上流から下流へ水が流れるので、府中かもしれませんが、狛江かもしれませんし、福生や青梅、奥多摩からかもしれません。それでも「これって府中の六所宮の御神体だぁ」とわかるのなら、あるべき場所へお返しするのが筋という気がします。神道では分霊しても元の御神体の力は軽減しないので、構わないと思いますが、現在の法律だと窃盗で罰せられますね。

ちなみに境内社の水神社も、かつては河畔にあったのですが洪水で行方知らずになり、砂利作業中に見つかったものを、元の場所ではなく六所神社内に安置しています。なんだかなぁ……と思っていましたが、境内を拝見していると、六所神社も水神社も、すごく大切に祀られていることが伺えます。経緯はどうあれ、今、大切にされているかが大事。と、保護犬保護猫活動の悟りの境地のようなことが思い浮かびました。

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二子の渡し跡は、世田谷区立玉川福祉作業所の入口にこっそり建っています。大正14年に二子橋が完成し、役目を終えます。この渡しは大山街道という道が多摩川を越えるために渡していたのですが、江戸から神奈川県の大山まで通じる道で、参拝の人が多く利用した道とのこと。

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二子玉川多摩川沿いの町の中でも、抜群に大きくてお洒落な町です。ただ、多摩川に近すぎるので洪水の恐れと共に生活することになりますが、それでも尚余りある魅力に包まれた町です。

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この右側の土手は2019年の多摩川氾濫以来ずっと工事していましたが、これで完成なんでしょうかね。福島第一原発もそうでしたが、どんなに最新鋭の防止策を講じていても、自然は想定を上回る力を持っています。

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二子橋を超えて、親水公園のような芝生になっているエリアです。多摩川から水を引いて人工の川に水を通して遊べるようになっています。二子玉川が大きな街なので気にならなかったですが、対岸の二子新地も大きな建物が多いですね。

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河川敷の野球場には野球をする子どもだけでなく、その両親、そして監督コーチと、大集団になっている光景が見られます。お揃いのチームジャンパーやTシャツを着て、キャンプ用品をたくさん運んで、ターフを張ったり、キャンピングチェアを並べたりと、親御さん方も大変です。監督コーチたちは、そのような親御さんの期待の星に檄を飛ばして、熱血指導しています。私は生存競争的ではなく「できないなら、できないで良い」と簡単に諦めてしまうので、粘り強く指導する姿を尊敬します。

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海から20km歩いてきました。奥多摩湖まで何kmあるのか知りませんが、まだまだですね。遮るものが少ない一本道をただただ歩くというのは気持ちがいいです。このあたりは世田谷区宇奈根です。この先の河川敷に、警視庁白バイ訓練所という教習所みたいな場所があるのですが、通過した際、白バイ隊員と思われる方がひとり黙々と8の字ターンの練習をしていました。散歩中と思われるおばさんがずっとその姿を見ていて、何枚かスマホで写真を撮っていました。

多摩川左岸巡礼20番:世田谷区宇奈根 庚申塔

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こちらは庚申塔です。庚申とは「かのえさる」という干支の1つです。十二支は有名ですが、干支とはそもそも「甲乙丙丁・・・」の十干と、「子丑寅兎・・・」の十二支を組み合わせたもので、全部で60に設定されていて、庚申は57番目です。中国の道教に由来する伝承に「三尸説(さんしせつ)」というものがあります、60日に一度やってくる庚申の日に眠ると、体の中にいるという三尸という虫が、体から抜け出して宿主の罪悪を天帝に告げて、宿主の寿命を縮めるという言い伝えです。そのために庚申の日には複数人で集まって眠らずに過ごすという行事がありました。これが平安時代に日本に伝わり、仏教(特に密教)、神道修験道、呪術、医学、民間信仰や習俗と絡み合いながら、やがては全国に広がります。

庶民は会食談義をしたり仏教的な読経をしたりして過ごすようになり、庚申講を結成し、3年18回行ったら、記念に庚申塔を街道筋や辻に建てるようになりました。時代や地域によっていろんな形がありますが、文字が書かれただけのものや、青面金剛(庚申の本尊とされる)や猿田彦神垂迹神)や三猿(見ざる言わざる聞かざる)を刻んだ石碑だったりします。

多摩川左岸巡礼21番:宇奈根氷川神社

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広い境内ですが、創建は暦仁元年(1238年)という説もありますが、一応不詳で江戸初期あたりには存在していたそうです。旧社格は村社で、ここから少し内陸に入った天台宗の観音寺が別当寺だったそうです。

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広くて閑散とした境内ですが、手水舎もあります。氷川神社ですから御祭神は素戔嗚尊です。このあたりには喜多見氷川神社と大蔵氷川神社があって、合わせて「三所明神社」と称しているそうですが、現在ではこの宇奈根氷川神社と大倉氷川神社は無神官状態となっていて、喜多見氷川神社が2つの神社を兼務管理しています。

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この社殿は昭和20年の東京大空襲で消失したものを、平成11年に再建したのだそうです。何だかすごい執念ですよね。それにしてはあまり新しく見えなかったのですが、人がいないと建物は傷みやすいと聞きます。と、心配しつつも、平成11年も今となっては20年以上前の話だと、自分の年寄感覚に幻滅しました。

多摩川左岸巡礼22番:宿河原稲荷神社

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写真( ↑ )の左上が多摩川の土手です。「土手から見えるんだけど、ここ、どうやって入るのだろうか?」と、ウロウロ歩き回って、駐車場の奥に発見しました。このあたりは世田谷区を過ぎて、狛江市に入っています。狛江市駒井町あたり。

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入ってみると、結構きれいです。ちゃんと植木も手入れされています。おそらく、この駐車場の地主さんの家の守護神だった稲荷神社だと思います。この神社に宿河原という名前がついているのは、おそらくこの地が昔は神奈川県で、宿河原だったからだと思います。え? 多摩川左岸は東京都で、神奈川県じゃないでしょ? と思う方もいらっしゃると思いますが、長い歴史の中で、多摩川は右へ左へ流れを変えていたんだと思います。その名残で多摩川の右岸と左岸に同じ町名がある地域が結構あります。

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何だかわかりませんが、摂社もありました。横に大河原氏子中と書かれています。宿河原は現在川崎側にありますが、このあたりも神奈川県宿河原だったそうです。多摩川を県境にしたことで、東京府狛江村駒井に属することになったという訳です。このように土地の名前が無くなってしまっても、神社や寺、通りや橋の名前で残っていることってあります。多数に飲まれ故郷の名を失った人たちが、せめて残したいと名付けたんだとしたら、ちょっと切ないですね。

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二ヶ領宿河原堰と言います。写真の中央下に踏切の信号がありますが、河川敷に踏切がある訳ではありません。河川敷にあるのは自動車教習所です。土手を挟んで川の方に教習コースがあり、岸の方に校舎があります。二ヶ領宿河原堰は多摩川右岸地域に用水を流すためのものです。

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二ヶ領宿河原堰は、他の堰と比べてもかなり立派なのですが、川崎の多摩川右岸地域が急速に発展していったため、昭和の高度成長期には水不足が度々発生していました。そんな頃、昭和49年に台風のために多摩川は増水し、二ヶ領宿河原堰が勢いを増す川の流れを堰き止めて、ついに氾濫して民家を押し流しました。人々が豊かに暮らすために造られた堰が、人々を襲う濁流の原因となってしまい、結局は水を流すために堰は人の手で爆破されてしまいます。そんな歴史を歩んでも、現在はまた再建されています。2019年の台風で調布、狛江あたりも被害があったと思いますが、堰は関係なかったのでしょうか。上( ↑ )の三角は、当時を思うモニュメント「多摩川決壊の碑」です。


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海から23km。多摩水道橋まで歩いてきました。この橋の上は世田谷通りが走っています。大田区、世田谷区を抜けて、東京都市部に入ってきた多摩川左岸 百所巡礼ですが、現在は22番までお参りできました。私としては18番目の野毛の善養寺が強烈過ぎて、狛江あたりだと、まだ善養寺ショックを引き摺っています。この先、どんな寺社と巡り合うのか、果たして百所お参りできるのか? 乞う、ご期待。

 

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