寺社探訪

寺社探訪とコラム

「コロナ禍のお葬式」

新型コロナウイルスの流行により、社会は変わってしまいました。私が働く葬儀業界にも大きな嵐が吹き荒れています。影響が目立ち始めたのは、2020年に入った頃でしょうか。そもそも数年来続く「家族葬」の流行で、葬儀参列者が減少傾向にあったのでわかりにくかったですが、参列者が目に見えて減り始めました。2月頃には、遺族親族、会葬者、葬儀社関係者が全員マスクをしたまま葬儀をするということが定着しました。マスクしてお葬式など、最初は違和感しかなくて、本気ですか? と聞いてしまいました。やはり危機感にも個人差があって、マスクをしないで参列する人もいましたが、そういう人が肩身の狭い思いをするので、遺族側や葬儀社側でマスクを用意するようになりました。その頃はマスクやフェイスガードは手に入れるのが難しく、手に入ったとしても非常に高価で、葬儀に参列するのもひと苦労だったと思います。

すぐに定着したといえば、通夜の後の会食の席がなくなりました。告別式の後の会食の席もその後しばらくしてなくなりました。葬儀社側としては、仕出し料理店や配膳サービス会社が壊滅的なダメージを受けるので、サーキュレーターやパーティションを使って、なるべく会食を続けられる環境を維持したかったと思いますが、遺族側でも、我が家のお葬式で感染者が出たりクラスターが発生したりすると、故人の供養どころではなくなるので、リスクを負いたくないというのも頷けます。通夜振る舞いや精進落としの席がない代わりに、寿司折や懐石料理の弁当などを渡している場合もありますが、人々の意識が「会食なしで当然」になっていて、無理に料理を持たせることにこだわらなくなってきています。

緊急事態宣言が発令され、外出がままならなくなると、お葬式自体を取りやめて火葬のみにしたり、通夜を取りやめてお葬式だけを行うという方法(ワンデー葬儀)が増えてきました。大寺院を除くと、家族で運営しているお寺がほとんどですので、感染対策や危機意識の強いお寺も出てくるようになりました。お寺の方からお通夜を禁止にしたり、初七日法要を含めて告別式の1時間内で行うことを提案されたり、読経時間が短くなったり、式場の開く扉や窓は全部開けて、次亜塩素酸のミストを式場中に噴霧する装置を設置したり、火葬場に同行するをやめたり、同行しても遺族の用意したハイヤーを断って自家用車を自分で運転したり、何をどこまですれば大丈夫という基準もないから、誰かの危機意識に翻弄されながらのお葬式運営でした。

2020年の夏前には、一度収まってきたように見え、会食を復活する場面もありましたが、すぐに第二波がそれまで以上の勢いでやってきて、そこからは、火葬のみ、家族葬ワンデーというのがぐんと増えました。そのうち火葬場や式場でも、お通夜中止を推奨したり、人数制限を設けたりするようになりました。現在は第四波に対する緊急事態宣言が解除された状態ですが、80席ある式場に遺族5人のみでというのも珍しくなく、もうお葬式はこのパターンが定着してしまっています。

葬儀業界的には大打撃で、人員整理や副業で乗り越えようとしたり、廃業に追い込まれたりする会社も出てきました。私の近くでも、廃業した人が複数います。ですが、遺族の立場だと、 この変化してしまったお葬式は、決して打撃ばかりではないというのが恐ろしいところ。今のお葬式の状態は、遺族にとって、葬儀費用をかなり押さえられます。関東だと通夜振る舞いの習慣がありますから、それがないだけでかなりの経費減です。他にも、通常だと、家族だけで葬儀をしたくても、仕事関係友人関係の会葬を断ることは、義理を欠く(欠かせる)行為になってしまいますが、コロナ禍のせいにするとすんなり納得してもらえます。遺族にとっては多数のお客様を二日間相手する負担が軽減され、故人様とのお別れに集中できます。

しかし、人は社会的に生きています。どんな人も家族と過ごした部分だけではなく、学校、仕事、趣味、社会活動などの場で、大なり小なり様々な人間関係を築いて生きてきたはずです。人の生涯の終わりは、医学的な死、法律的な死、社会的な死があります。社会的な死は葬儀を行うこと(だけとは限りませんが)で果たされるので、そこを省略してしまうと、多くの人が気持ちの整理に困惑し、傷つく結果となることもあります。

私は葬儀業界の仲間と共に、いつかbeforeコロナの状態に戻ってほしいと願いますが、これだけ長期間自粛葬儀が続いてしまうと、もう元には戻らないというのが、私周辺の意見です。葬儀業界にとっては緊急事態の回避措置のような、人間関係を省略しまくった葬儀が、意外にも遺族に受け入れられ、これでいいんじゃないかとスタンダード化していく予感があります。葬儀業界はafterコロナに向けて、新しいお葬式のカタチを模索して対応を練っておかないと、元に戻ると思っていたら、手厳しい結果になるような気がします。

 

そんなコロナ禍のお葬式で、私か残念に思うのは、遺族が故人の生と死を見つめるプロセスが省略されてしまうことです。人は人生の過程で死生観を養っていきます。生と死、価値、意義、尊厳など、きちんと学ばないと歪んだ死生観を持つ大人になり、極論的には簡単に人を傷つけたり殺したりする人間になるかもしれない。そして、命の尊さを教えてくれるのは、本でもTV番組でもなく、大切な家族親族だけなのです。人が死んでゆく姿とは、必死に生きようとする姿なのです。家族親族として、いろんなことを知っている、何が好きで、何をしてきて、これからどんな生きる目標があるのかもわかる。本当に身近で大切な人だけが、命の火が消える直前まで生きようとする姿を見せてくれるのです。その姿を見て、話して、触れることで、そこにある命の真髄を学ぶことができます。

ですが、コロナ禍で現在の医療機関のほとんどは、コロナでなくても、家族であっても面会禁止です。病院に救急搬送され、1度もお見舞いに行けず1ヶ月が経ち、病院からの連絡で駆けつけると、既に危篤で、呼吸器が挿管されていて意識もなく話もできずに見送った。という状況。今際の際に会えなかったという話も聞きます。

手を握り元気付けることも、笑顔を送り合うこともできず、亡くなってしまった大切な人のお葬式には、せめて家族親族で、故人の生きた日々を語り合ったり、棺の窓越しでも想いを伝えたりして欲しい。コロナ禍なので、火葬のみとか、通夜はなしで1日で済ませましょうとか、そういう送り方をしてしまったら、死生観を養うことが更に難しくなると思うのです。コロナのせいで「仕方がないね」と諦めることを飽きるほど繰り返している毎日ですが、本当に大切なことが失われていると思うこの頃です。