寺社探訪

寺社探訪とコラム

「三宝に帰依する」

土地勘のない町を歩いていたら、あるお寺の前を通りかかりました。私はお寺が好きなので、「立派なお寺だなぁ」と立ち寄ろうとしました。駐車場には一台も車が停っておらず、定休日(お寺に定休日などあるのだろうか?)なのかな? とも思ったが、そのまま山門の方へ歩いていると、「あ、ここ、ヤバいお寺だわ」という勘が働いた。門を入らず、塀に沿って中を覗きながら歩いてみた。伽藍がすごく立派です。女性が境内を早足で歩いていたが、私の長年の勘では住職の家族に違いない。他には人はいない。

葬儀業界で働く私は、これまで数百人の僧侶と接してきました。その経験が、ここは、そ・う・い・うお寺だよと言っています。なんだか貼紙が多くて、ああしろこうしろ、あれするなこれするな、と指示だらけ。スマホで口コミ検索してみると、結構な数の口コミが。読んでみると、想像したような内容がズラリでした。やっぱりねぇ。境内に入るのは止めにしました。

仏教を信仰する(仏教徒になる)はじめの第一歩というのは、三宝に帰依することだと思います。これは「仏」=釈迦、「法」=釈迦の教え、「僧」=釈迦の教えを受け継ぐ出家僧たち、の3つを私の拠り所としますという意味です。いろんな宗派で読まれている「三帰依文(さんきえもん)」「三帰礼文(さんきらいもん)」というお経の中身がそんな感じです。

私が思うに、日本人はこの三宝のうち、「仏」と「法」は受け入れやすいですよね。仏教の知識のある人も、ほとんど知らない人も、お寺でお賽銭を投げて本尊に手を合わせて、有り難いもの、尊いものとして「仏」と「法」に帰依できると思うのです。オレは信仰なんてしねぇ、という人もいると思いますが、八百万の神々を信仰し、宗派の差に寛容な日本人は、受け入れやすいという意味です。

では、「僧」についてはいかがですか?

なかなか受け入れ難い「僧」が多いですよね。「坊主丸儲け」なんて揶揄して、多くの場合はお金にまつわることで嫌われているお坊さんがたくさんいます。出家したお坊さんは、煩悩を払い落として、酒もタバコもギャンブルもしない。肉食もしない。妻帯も性交もしない。キャバクラではしゃいだり、高級車を所有したり、土地や株で儲けたり、リゾート地に別荘を買ったりしない。いつも穏やかで冷静で寛容で、仏道を極めることに打ち込んでいる人であってほしい。私もですが、僧にはそんな聖人を求めてしまいます。

しかし、おそらく日本の僧は、自分が聖人と勘違いしている人を除けば、聖人になろうとしている人は少ないと思います。人々が求める姿を、そもそも目指していないのです。私が日々お寺や僧侶と接してきて感じるのは、日本の僧の最大の目的は、自坊(自分の寺)を子に継がせ、寺(自坊や宗派)の隆盛を維持していくことです。しかしながら、仏教徒の本来の最大の目的は「解脱」つまり、悟りの境地を得ることです。そのためには煩悩を滅することが必要で、僧は修行によって煩悩を滅し、悟りの境地へ向かう人だから、それができない衆生から尊敬されるのであって、他の目的のために解脱を目指さない僧を、私は認めたくないです。

だから、日本の僧に解脱した(悟った)人っていないのです。アジアだとその境地に至った僧が稀にいますが、現代の日本だと、数千カ寺を抱える宗派の長であっても、お供の僧を何十人も引き連れた大僧正でも、命懸けで過酷な修行を乗り越えた大阿闍梨でも、仏道60年の老僧でも、解脱したなんて人はいません。麻原彰晃くらいです。
仏教はインドでお釈迦様が開いて世界に広めた教えなのですが、伝わった地域やルートや伝えた人によって中身が違っています。特に日本はインドから遠いので、数世紀かけて壮大な伝言ゲームをしながら、ヒマラヤを外回りして海を超えて伝わってきました。だから日本に伝わった仏教と、釈迦が説いた仏教は同じではなく、日本国内で広まっていく過程でも、更に様々に変容していきました。教えが土地に根付き時代に相応するには、そのままでは受け入れられず、変容が必要だったのだと思います。
そんな変容が必然の中、「日本の僧は解脱を目指さない代わりに、自坊と宗門の繁栄を目的とする」というジャパンローカルルールが成立しているので、私や衆生の人たちが僧に聖人を求めても、日本の僧はジャパンルールに従って、檀家の獲得や維持(自坊の安定運営)に注力するのです。
そんな今のジャパンルールも、時代とともに変容していくことでしょう。仏法僧に帰依してこそ仏教なので、僧に帰依できなければ仏教にならず、続くことは難しいでしょう。実際、僧も世襲、檀家も世襲なんて楽チンでヌルい関係が変わってきていますね。こういう変容はゆっくりじわじわ。数十年かけて進むでしょうから、気づかぬ間に形を変えるでしょう。100年前には、僧が副業するとかなかったが、今は当たり前です。出家して仏道修行しているはずなのに、俗世で働いて賃金を得ているのです。生きるために仕方なく、これも修行だと言って・・・。

そんなじわじわの変容ですから、私は見極める前に死んでしまいます。それまでに、私の心の拠り所となる僧侶が見つかると嬉しいなぁと思います。