寺社探訪

寺社探訪とコラム

「阪神淡路大震災から28年」

十年ひと昔と言いますので、28年だとかなり古い話になります。30代前半の人でもほぼ記憶に無いような出来事になったのですね。それでも毎年人々が集って、亡くなられた6400超の命に対して祈りを捧げています。東京でも日比谷公園で「1.17のつどい」が開催されました。神戸では前日から東遊園地で開催され、知っている人と知らない人の記憶を結ぶイベントとなっています。

震災当時私は広島市民でした。損害保険会社に勤めていて、まだ若くて不規則な生活だったので、たまたま朝6時前の地震発生時に起きていました。震度3の広島でも結構揺れて、部屋のテーブルの上に立てかけてあったフォトプレートがパタンと倒れたのを覚えています。テレビをつけてみると震源地が兵庫県だったので驚きました。仕事は朝9時からで、40分ほどの通勤時間だったと思います。ギリギリまでテレビを見ていましたが、最初は死者1名という報道でした。会社に着くと、私のデスクだけ被災していました。私は内勤で、資料を多く使う業務だったので、高く積み上げていた資料が崩れ落ちていました。当時はスマホも携帯電話もないので、情報はテレビやラジオから得るものでした。業務が始まってしばらくすると、兵庫県で起きた地震が大災害になっているという情報が、私の働くフロアにももたらされました。同じフロアの営業課の先輩が、隣の部署の私のところにやってきました。「お前、郵便局でテレビ見てこい。お前の家の方だぞ。すごいことになっているぞ」

社屋を出て隣の郵便局に行くと、テレビの周りに人だかりができていました。映し出される惨状に、思考が奪われていきます。「なんなんだこれは・・・」生まれ育った街が、めちゃくちゃになっていました。特に阪神高速が倒れている映像は衝撃的でした。街のあちこちから炎と煙が上がっている映像もありました。映像が切り替わっても、そこがどこだかすぐにわかりました。大きな衝撃を受けて自社に戻ると、地震に関する問い合わせの電話が殺到し始めました。今入っている保険内容は地震災害時に担保されるのか、担保されるようにするにはどういう手続きが必要か、という問い合わせが次々にやってきて、受話器を置く暇もなく、「〇〇代理店さんから 地震保険の問い合わせ 電話お願いします」というメモがデスクに置かれていきます。東京の本社から社内通達があり、兵庫県南部出身者は、家族の安否を確認するように求められました。両親に何度か連絡しましたが、繋がりません。私は神戸市灘区の生まれですが、当時私の実家は隣の明石市にありました。明石市がどれほどの被害なのかわかりませんでしたが、両親とも神戸生まれなので、親族の多くが神戸市内に住んでいます。誰の安否もわからず心配でした。午後になって営業から戻ってきた先輩社員から、新たな情報が伝えられます。私は依然電話の問い合わせに対応中で、実家に電話することもできません。「ここは広島で、あなた達は被災していないでしょ!」と言いたい気持ちを抑え、同じ問い合わせに答え続けました。裏を返せば、遠く離れた広島市民がこれだけ恐怖する事態なのだということです。地震に恐怖する広島の契約者さんを安心させることが、私の仕事なのでした。

日が暮れて電話が収まり、ようやく一息ついたのを覚えてます。課長や同じ課の先輩たちが、私の実家に電話が繋がるまで残ってくれていました。18時か19時頃にようやく電話が繋がり、両親が無事であることがわかりました。後で聞いた話によると、長田区の叔父たちは被災して私の実家に避難していました。県立病院で看護師をしていた姉は、情報や物流が遮断された中で、患者優先でほとんど食事もできずに仕事をしていたそうです。東灘区の親戚が被災して公園に避難していると聞いて、父は土鍋とカセットコンロと食料を積んで車で向かい、数日かかって帰ってきたそうです。家に帰ってきた父は、姉の話を聞いてまた十数時間かけて県立病院に食物を届けに行ったそうです。そして私は翌日からも地震保険の問い合わせの電話に追われるのでした。

 

1週間ほどした頃からだろうか、全国の支店から兵庫県南部の支店に応援部隊を派遣するということが始まりました。兵庫県南部の各保険会社の皆さんは手に負えない仕事量に押し潰されていたと思います。私と同じ内容の仕事をしている方も兵庫県南部の支店にいて、研修で知り合いになっていました。陣中見舞いと息抜きのために電話連絡してみると、ほとんど家に帰っていないとのことでした。気晴らしになったよと言ってくれましたが、想像以上に深刻で重い毎日を送っていることが伺い知れました。

2ヶ月近くが経った頃、兵庫県南部の支店への応援派遣隊に私が選ばれたことを課長から聞きました。応援派遣は地震直後の1次隊から継続的に派遣されていて、ようやく私の番が回ってきました。自分が仕事を通じて得た知識や経験を活かして、故郷で苦境にある人々の役に立つことができる。誇らしい気持ちで、派遣部署と派遣日程を確認すると、茨城県の研修施設へ行く日と神戸への派遣期間が被っていました。課長に本社へ問い合わせていただいた結果、研修優先でとの答えだった。そんな訳で私は広島空港から神戸の上空を素通りして茨城県の研修施設で一泊の研修を受けました。研修の翌日は休みだったので、明石市の実家に帰ってみることにしました。新幹線で新大阪まで行き、そこから在来線に乗り換えました。六甲道駅から灘駅の間か、灘駅から三ノ宮駅の間か記憶が曖昧なのですが、不通の区間があって代替バスが運行していました。私はバスに乗らずに歩くことにしました。研修施設を昼過ぎに出発したので、既にあたりは暗かったです。さすがに地震から2ヶ月近く経っていたので、直後の映像で見たようなめちゃくちゃな街並みではありません。それでもところどころ、崩れたまま放置された民家が見受けられました。片付けられていく街を眺めながら、なんだか申し訳ない気持ちで歩いていたのを覚えています。その後会社は全国的に地震保険のキャンペーンを行い、広島にも大量のパンフレットが届きました。商魂逞しいですよね。

 

そんな記憶も28年前の話です。あの頃狂った人生に今も苦しんでいる人はいらっしゃると思います。それでも社会は時間とともに進むので、28年分進んだ神戸の街では、震災の影響がほとんど感じられない日々が送られていると思います。あの時亡くなられた人は、良い人も悪い人も、これから良いことをしようとしていた人も、予告なく一瞬で命を奪われ、人生が終わってしまいました。私が今この世に存在していて、その人たちに与えられなかった時間を過ごしていると思うと、有り難く大切に生きなければならないと思い改めました。

 

( ※ 冒頭の写真はフリー素材です )

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