寺社探訪

寺社探訪とコラム

天台宗 大圓寺

天台宗 大円寺 目次

名称・寺格

松林山 大円寺と称します。寺格は特にありません。

創建

寛永元年(1624年)、出羽三山湯殿山修験道の行者・大海法印が創建しました。

本尊

釈迦如来

ご利益

開運出世・縁結びのご利益が有名です。また、本堂手前に安置されている薬師如来像には、金箔奉納ができます。

みどころ

境内に多くの堂宇と石像・石碑が建っていて、ひとつひとつ見て回ると、かなりのボリュームがあります。駅から近いので立ち寄りやすいことも魅力です。

アクセス

東京都目黒区下目黒1-8-5

JR山手線「目黒」徒歩3分

探訪レポート

JR目黒駅から近く、有名な芸能事務所のホリプロの側にあります。大円寺は一見狭そうに見えるのですが、たくさんの堂宇や仏像や石碑などが境内に建てられています。門を入ると左手にずらりと石仏が安置されたエリアがあります。それぞれのお参りポイントに摩尼車(まにぐるま)が置かれていて、丁寧に信仰に触れられる寺院だと感じました。少し時間がかかることを覚悟して、ひとつずつ何が祀られているか知りながら祈願して回ることをお薦めします。ちなみに魔尼車は、経が書かれた輪を1周廻すとその経を唱えたことになるというものです。

手水舎の向こう側に五百羅漢が並んでいます。これらの石仏群は520躯あり、東京都の文化財に指定されています。釈迦三尊が3躯、十大弟子像が10躯、十六羅漢像が16躯、五百羅漢像が491躯とのことです。明暦の大火、文化の大火と並び、江戸三大大火とされている、明和の大火の犠牲者追悼とために作られたそうです。近くで見ると数の多さに圧倒されます。

こちらは石仏群の中心を成す釈迦三尊像の釈迦如来坐像です。明和の大火は明和9年(1772年)にこの大円寺から出火しました。原因は現在の埼玉県熊谷市の住所不定の僧侶による放火で、なんと、この目黒から浅草あたりまで燃えたそうで、神田明神や浅草本願寺や湯島天神も焼失する大火災でした。

こちらはとろけ地蔵です。石像の地蔵尊がぐにゃんと溶けたように見えます。こちらは江戸時代に品川沖で漁師が引き揚げたものだそうです。引き揚げた後に火事で溶けてしまい、現在のような様相になったそうです。心身の悩みをとろけさせるというご利益があるとされています。

本尊の釈迦如来秘仏として本堂ではなく釈迦堂に安置されています。こちらは「生身の釈迦如来」という奇妙な別名があります。この釈迦如来像の由来はなかなか面白いので、少し長くなりますがお付き合いください。

古代インドのコーシャンピー国の優填王(うでんのう)が、説法のために出かけた釈迦の不在を寂しがって、釈迦が37歳の頃の生き姿を刻んだ像を作らせました。その像が中国に伝えられます。そして寛和元年(985年)、東大寺の奝然(ちょうねん)という僧が、この釈迦如来像を模刻したものを宋から持ち帰りました。奝然の没後、弟子の盛算(じょうさん)が建立した京都の清凉寺に安置され、現在でも清凉寺の本尊であり、国宝に指定されています。この如来像の像内には絹で作られた五臓六腑が納められていて、「生身の釈迦如来」と呼ばれています。また、この如来像はインドー中国ー日本と伝来したので、「三国伝来の釈迦如来」という異名があり、模刻された像が全国に広まりました。この模刻された像を「清凉寺式釈迦如来」と呼ばれています。そして、現存する最古の清凉寺式釈迦如来が、この大円寺にある釈迦如来像なのです。胎内からは髪の毛や鏡が納められていたとか、清凉寺のものと同様に絹で作られた五臓六腑が納められていたとかで、大円寺の釈迦如来も「生身の釈迦如来」として祀られています。

とすると、本堂には何がご安置されているのか? と疑問が湧きます。安置されているのは、徳川家康をモデルに創られたという大黒天です。大黒天の奥に十一面観音菩薩がご安置されています。明和の大火の原因がこの大円寺ということで、火災によって境内の堂宇は全て消失したのですが、火元という罪な要因で、再建することを許されませんでした。火災から約70年後の江戸後期に、薩摩藩主の島津斉興菩提寺として帰依したことで再建されました。

こちらは薬師如来像です。金ピカなのは金箔が張られているからで、金箔奉納ができることを意味しています。珍しいですが、川崎大師や三宝寺などにもあります。500円で小さな金箔紙が三枚買えます。薬師如来なので、自身の身体の治したい部分に貼り付けるとご利益があるとされています。

本堂前に七福神がいらっしゃいます。何故かここだけ、一般家庭の庭飾り的な雰囲気になっています。七福神めぐりは各所にありますが、この大円寺は(元祖)山手七福神めぐりのひとつとなっています。

本堂の右側に寺務所があり、その右側に阿弥陀堂があります。このお堂の前にも、様々な石碑や石像がご安置されています。「八百屋のお七」というロマンティックなお話が言い伝えられています。明和の大火の90年前に起こった天和の大火でお寺に避難したことで吉三と出会い恋をしたお七は、吉三に会いたいがために放火をしてしまい、処刑されてしまいます。吉三はお七の菩提を弔うために、現在の雅叙園にあった明王院阿弥陀三尊を祀り、浅草寺まで1万回の念仏行を行いました。27年がかりで行を成し遂げた日、お七が夢枕に立って成仏したことを告げたそうです。明王院はその後大円寺に吸収されたので、吉三の釈迦三尊像と成仏したお七の姿を移した地蔵尊大円寺阿弥陀堂にご安置されています。阿弥陀堂の前に、お七地蔵の石像と摩尼車が建立されています。叶わぬ恋で命を落としたお七が、恋人の献身的な供養で成仏し、縁結びのご利益を授けてくれるというハッピーエンドな展開になっています。

こちらも阿弥陀堂の前に建立されている道祖神です。かなり新しく見えます。作りもしっかりしています。この道祖神も、道端や辻に建っていたのでしょうか? 道祖神庚申塔と同様の民間信仰で、辻に石碑を建立して…という点もよく似ています。起源についてははっきりしていないようですが、中国では紀元前から、日本では八~十世紀くらいには中国から伝わっていたと言われています。江戸期に広まったのは庚申塔と同じなので、案外と世の中が安定して庶民に暇ができたので、こういう村行事的なことが流行したのかなとも思います。まぁ、勝手な推測ですが。

阿弥陀堂の右側から奥に通じる道があるのですが、そこを進んでいくと葬儀式場があります。最近はめっきり来ないですが、若い頃はこの辺りも仕事のテリトリーで、何度か訪れました。今その式場がどんな感じだかはわかりませんが、葬儀屋さんが何人かいたので、現在でもそこそこ利用されているのだと思います。通路の右側に観音菩薩の石像があり、その右側に鐘楼があります。平成21年に建立された新しい鐘楼で、吉三が八百屋のお七の菩提を弔うと発願して350年記念事業だそうですが、お七の没年は1683年なので、350年記念は2033年ですね。現代を生きる私は「ちょっと早すぎない?」と思っていますが、100年か150年後くらいにはどうでも良い時間差になっているでしょう。

境内の空きスペースを利用して様々なものがご安置されています。こちらは身代わり地蔵尊と呼ばれるものですが、その身代わりシステムが結構面白いです。これはお地蔵様二躰を信仰することで、災いや難儀を左から右へ、右から左へと入れ替えて身に受けないようにしてくださるというご利益があるとのこと。横に並んだ地蔵尊が、ラグビーボールのように災いを受け渡す様子が想像できます。

先程は道祖神がご安置されていましたが、こちらは庚申塔です。庚申塔青面金剛猿田彦神などが多いのですが、「見ざる言わざる聞かざる」の三猿も庚申塔として広く使用されています。この地域では三猿が多いのでしょうかね。そもそも神道も仏教も関係のない民間信仰ですが、信仰の対象として神道や仏教に引き寄せられていって、境内に祀られるようになったと思われます。

この大円寺がある行人坂というのは、江戸中心部から目黒不動へ向かう行者が通った坂道ということで行人坂というそうです。2つの大きな火災に縁の深い寺院で、火災との関係に着目して境内を拝見すると、寺の歴史をうかがい知ることができます。八百屋のお七のお墓は千葉県八千代市の長妙寺や文京区白山の円乗寺にあるのですが、この大円寺には吉三とお七の共同墓が築かれています。

 

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