寺社探訪

寺社探訪とコラム

「白骨の御文」

葬儀業界で働き始めると、様々な宗派の葬儀に立ち会うことになります。最初は先輩から教わることが多いと思いますが、一般的に馴染み深い平安仏教(天台宗真言宗)や鎌倉仏教(浄土宗・浄土真宗曹洞宗臨済宗日蓮宗など)の中で、浄土真宗だけ特殊ですよと教わると思います。元はお釈迦様が起こした同じインドの仏教なのですが、日本では様々に変遷した教えが存在しているのです。まず、視覚的に見てすぐわかる浄土真宗が他の宗派と異なっている点は、僧侶が剃髪していないことです。剃髪した頭のことを坊主頭と呼びますが、浄土真宗の僧侶は剃髪が義務ではないようです。

そして、教義的に一番異なる点は、霊の世界が存在しないことです。浄土真宗ではどんな人でも亡くなるとすぐに阿弥陀様が迎えに来てくださり、西方極楽浄土へ導かれるという教えです。四十九日間、冥界を旅して三途の川を渡ったり、閻魔大王の裁きを受けたり、そんな考えがない宗派なのです。即身成仏という言葉がありますが、亡くなられたらすぐに仏様になるのです。なので、お香典の表書きは「御霊前」ではなく「御仏前」となります。

他には、お線香を手向けるときは、香炉に寝かせること。お焼香の際に、摘んだ香を額に押し頂かないこと。清めの塩を使わないこと。会食の席は「お清め」ではなく「お斎(おとき)」の席と呼ぶこと。菩提寺ではなく、お手次寺と呼ぶこと。戒名ではなく法名と呼ぶこと。などなど、他にも様々に浄土真宗特有の事例を挙げることができます。浄土真宗の檀信徒の方であれば当然だと思われるかもしれませんが、現代の日本で最も信徒数が多いと言われている浄土真宗が、同時代の他の宗派と一風違った存在だというのは、なかなか興味深いですね。葬儀業界で働いていくうちに、このような浄土真宗の特殊性については当然のように慣れてしまいます。それでも、その目的や理由や背後にある教義や歴史を知っていくことで、仕事に対する理解が深まっていきます。

 

今回は、私がこれまでに学んだことや今回一夜漬けで得た知識を書き連ねるのではなく、私が浄土真宗の中で好きな部分をお伝えしたいと思います。それは、浄土真宗のお葬式には欠かせないもの(例外はあるでしょうけど)となっている、蓮如上人の御文書(御文)の中の「白骨」というものです。蓮如上人は室町時代の僧で、浄土真宗中興の祖とされています。教義の確立や布教に大きな功績を挙げた人で、開祖である親鸞聖人から8代目になります。ご存じの方も多いと思いますが、現在、浄土真宗は複雑多岐に分派していて、大きく「西」と「東」に分かれており、いわゆる「西」は浄土真宗本願寺派、「東」は真宗大谷派と称しています。蓮如上人は、当時衰退していた本願寺を復興させた人で、東西どちらの宗派にとっても、8代目の中興の祖という位置づけになっています。蓮如上人の生涯はかなり激しい戦いの人生なので、興味を持った方は様々な本が出ていますので、ぜひ読んでみてください。

 

蓮如上人の教えは、御文書(御文)という手紙形式でまとめられています。おそらくは100通以上あるのではないかと思いますが、その中でも「白骨」は最も有名です。これは浄土真宗の宗派で「葬儀の際には、信徒に読み聞かせる」というルールになっているようで、たいていのお葬式(初七日法要で読むことが多い)で「白骨」の御文書(御文)が読まれます。通常のお経は、祭壇(の本尊)に向かってお唱えしますが、御文書を読む時は、僧侶は信徒の方を向いて座り直したり、横向きになったりします。つまり、御文書(御文)は、故人に対してではなく、遺族親族、縁者に対して読まれるものなのです。私はお経の訳文などを読んだりすることもあるのですが、訳者が上手に言葉を置き換えて、ニュアンスを伝えるような美しい訳よりも、直訳が好きです。その時代のその人が記した文章って、現代の感覚からは違和感があって当たり前です。その違和感を感じたいのです。ということで、今回のコラムは「白骨」の御文書(御文)の直訳を先に、かな原文を後に書き記してみます。

 

(訳文)

人の浮いたように定まりのない姿をよくよく考えると、おおよそ儚いものというのは、生まれて生きて死ぬ一生で、まぼろしのような一瞬の終わりです。だから、いまだ数万歳生きたという人を聞いたことがない。一生はすぐに過ぎてしまう。今をもってしても、誰も百年間変わらない容姿を保てない。私が先なのか。他の人が先なのか。今日かもしれない、明日かもしれない。遅れて死ぬ人、先立つ人は、草木の根本に落ちる雫や葉先から落ちる露よりも多いと言える。

それだから、朝には血色の良い表情をしていても、夜には骨となる身であります。無常の風が吹いてしまうと、たちどころに目を閉じ、息ひとつ永久に絶えてしまえば、血色の良い顔もむなしく変色し、桃李(もも・すもも)のごとき姿を失ってしまえば、親族たちが集まって嘆き悲しんでも、どうしようもないことです。

だからといってそのままにもできず、野辺の送りをして火葬を済ませると、ただ白骨だけが残りました。あわれというだけでは言い足りない。だから、人の命の儚いことは老いも若きも差がないことなので、すべての人が早く人の生死の一大事を心に留めて、阿彌陀佛を心から頼りにして、念仏を唱えるべきなのです。

 

(かな原文)

それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おおよそ儚きものは、この世の始中終、まぼろしの如くなる一期なり。されば、いまだ萬歳の人身をうけたりということを聞かず、一生過ぎやすし。今に至りて誰か百年の形体を保つべきや。我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず、遅れ先立つ人は、本の雫、末の露より繁しと言えり。

されば、朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり。すでに無常の風来たりぬれば、即ちふたつの眼たちまちに閉じ、ひとつの息永く絶えぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李の装いを失いぬるときは、六親眷属あつまりて嘆き悲しめども、更にその甲斐あるべからず。

さてしもあるべきことならねばとて、野外に送りて夜半の煙となし果てぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。あはれといふも、なかなかおろかなり。されば、人間の儚きことは老少不定のさかいなれば、誰の人も早く後生の一大事を心にかけて、阿彌陀佛を深く頼み参らせて、念仏申すべきものなり。あなかしこ。あなかしこ。

 

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